
杉本健吉の肉筆画は市場に出回る作品数は非常に少ないですので、気に入った作品を購入するチャンスがあったら逃さないように心がけています。それでも大きさのある作品の入手は難しく、本日、紹介する作品もそれほどの大きな作品ではなく、しかも油彩ではありませんが、描いている椿と壺に興味もあり購入した作品です。

手前は伝平櫛田中作「試作 鏡獅子」(現在補修中)。
椿 杉本健吉筆
紙本水彩額装 右下サイン
F6号 画サイズ:縦400*横310 額サイズ:縦560*横470

杉本健吉は20歳の時(1925年)に京都に出向き岸田劉生の門下に入っていた時期の1926年に「花」で春陽会に初入選しています。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得て、1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描いています。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流しています。1971年、画壇(国画会)よりの引退しましたが、、画家としての創作は続けています。

1987年、名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵されました。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいましたが、2004年肺炎のために98歳で死去しています。杉本健吉の作品は自ら所有するのみで実質的に売られていませんでしたので、肉筆の作品が市場に出ることは滅多にありません。

本ブログに紹介された本格的な油彩の作品「アルハンブラ宮の丘」のような作品は稀有でしょう。

本日の作品はサインと印章が右下のありますが、真印でありサインも間違いないでしょう。
*この作品には新たに布タトウと黄袋を誂えています。額の作品を保存箱なしに保存してはおくのは蒐集するものとして失格です。さらに黄袋を誂えておくのも忘れてはいけませんね。

杉本健吉は「絵は感激から生まれる自分の子供」という信条の下、生涯その感激探しの旅を続けましたが、芸術は大衆のためにあることをはっきり意識していた画家のひとりです。
66歳で画壇を離れ自由な創作活動を開始したのは、感激から生まれる本当の美を求めて自分の信じた絵を描くためであったといいます。98歳の天寿を全うするまで、売るため、社会的地位獲得ではない、本当の好きな絵を描き続けた画業三昧の生涯がこの作品からも読みとれます。小生も最後はこうでありたい・・・。最後に打ち込めるものがある人は幸いであろう・・。

手前は伝平櫛田中作「試作 鏡獅子」(現在補修中)。
椿 杉本健吉筆
紙本水彩額装 右下サイン
F6号 画サイズ:縦400*横310 額サイズ:縦560*横470

杉本健吉は20歳の時(1925年)に京都に出向き岸田劉生の門下に入っていた時期の1926年に「花」で春陽会に初入選しています。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得て、1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描いています。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流しています。1971年、画壇(国画会)よりの引退しましたが、、画家としての創作は続けています。

1987年、名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵されました。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいましたが、2004年肺炎のために98歳で死去しています。杉本健吉の作品は自ら所有するのみで実質的に売られていませんでしたので、肉筆の作品が市場に出ることは滅多にありません。

本ブログに紹介された本格的な油彩の作品「アルハンブラ宮の丘」のような作品は稀有でしょう。

本日の作品はサインと印章が右下のありますが、真印でありサインも間違いないでしょう。
*この作品には新たに布タトウと黄袋を誂えています。額の作品を保存箱なしに保存してはおくのは蒐集するものとして失格です。さらに黄袋を誂えておくのも忘れてはいけませんね。

杉本健吉は「絵は感激から生まれる自分の子供」という信条の下、生涯その感激探しの旅を続けましたが、芸術は大衆のためにあることをはっきり意識していた画家のひとりです。
66歳で画壇を離れ自由な創作活動を開始したのは、感激から生まれる本当の美を求めて自分の信じた絵を描くためであったといいます。98歳の天寿を全うするまで、売るため、社会的地位獲得ではない、本当の好きな絵を描き続けた画業三昧の生涯がこの作品からも読みとれます。小生も最後はこうでありたい・・・。最後に打ち込めるものがある人は幸いであろう・・。