
水面に石を投じ、お互いに何を相手に思っているかを浮き彫りにしてみました。意外に反響が大きく、こちら側が一方的にいわれる側にまわりましたが、今でのこちらの甘えがそういう評価になってきていることを甘んじ受けなくてはなりません。相手は客先・・、これからが我々の正念場です。
人は好きなことはやっていると、自然に品というものがその生み出すものにもその人にも備わってくるものらしい。仕事というものは常にそうありたいものと願っています。こだわりは捨てて真摯に受け止めましょう。
さて本日は杉本健吉の作品です。藤井達吉と杉健吉の二人は画家というよりデザイナーかな? しかしその絵画には格調の高さがあります。
杉本健吉は本作品で本ブログに三作品目の登場です。
一作品目はこれはよくある版画ですが、とてもかわいい仏様です。
観音様 杉本健吉筆紙本水墨淡彩 軸先練
全体サイズ:縦1400*横394 画サイズ:縦304*横244
二作品目は面白い題材の図柄の作品です。「スカラベ」は糞コロガシ・・・・
スカラベ図壷 杉本健吉筆水墨色紙3号 額装 共シール
本日は何気ない・・、本当になにげない題材ですが、杉本健吉が良く描いている題材です。
版画が多く、肉筆が少ない藤本健吉の肉筆です・・、とはいえ目くじらたてるほどの値段ではありません。一応版画ではないかと疑ってみる必要はありますが、本作品は肉筆に相違ないようです。
山葵に慈姑 杉本健吉筆
水墨色紙3号 額装
ちょっとしゃれたデザインの額に収められています。

杉本健吉:1923年に旧制愛知県立工業高校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。

1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。1949年(昭和24年)奈良 東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。

1987年 名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)。

自然に教わり、謙虚に好きな仕事を続けた者はいつか報われるものです。
人は好きなことはやっていると、自然に品というものがその生み出すものにもその人にも備わってくるものらしい。仕事というものは常にそうありたいものと願っています。こだわりは捨てて真摯に受け止めましょう。
さて本日は杉本健吉の作品です。藤井達吉と杉健吉の二人は画家というよりデザイナーかな? しかしその絵画には格調の高さがあります。
杉本健吉は本作品で本ブログに三作品目の登場です。
一作品目はこれはよくある版画ですが、とてもかわいい仏様です。
観音様 杉本健吉筆紙本水墨淡彩 軸先練
全体サイズ:縦1400*横394 画サイズ:縦304*横244
二作品目は面白い題材の図柄の作品です。「スカラベ」は糞コロガシ・・・・

スカラベ図壷 杉本健吉筆水墨色紙3号 額装 共シール
本日は何気ない・・、本当になにげない題材ですが、杉本健吉が良く描いている題材です。
版画が多く、肉筆が少ない藤本健吉の肉筆です・・、とはいえ目くじらたてるほどの値段ではありません。一応版画ではないかと疑ってみる必要はありますが、本作品は肉筆に相違ないようです。
山葵に慈姑 杉本健吉筆
水墨色紙3号 額装
ちょっとしゃれたデザインの額に収められています。

杉本健吉:1923年に旧制愛知県立工業高校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。

1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。1949年(昭和24年)奈良 東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。

1987年 名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)。

自然に教わり、謙虚に好きな仕事を続けた者はいつか報われるものです。