郷里の画家で舘岡栗山は特筆べき画家のひとりだと思うのですが、郷里ですら正当な評価を受けていないようです。
忘れ去られた画家 秋渓谷 舘岡栗山筆 その14
紙本着色額装 紙タトウ+黄袋
全体サイズ:横737*縦681 画サイズ横541*縦482
秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ、本名は豊治。小学校を卒業後、1911年に秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていました。
1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷しています。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んみます。その頃、画号を長春から栗山に改めました。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来だそうです。栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となっています。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載しました。
1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住み、1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たします。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退しましたが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返しました。翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推されています。院展には初入選以来連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となりました。
1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住み、ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描いています。地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が作風となっています。
郷里の風俗や景観を数多く描いていますが、中央画壇から戦争のためにこれからという時期に疎開しているのがあまり名を成さなかった原因と推察されます。さらにこの画家も郷里の画家の倉田松濤、高橋萬年らと同様に多作なことも影響しているのでしょう。このことから出来の良い作品に蒐集は厳選した方がいいでしょうね。
郷里の母の実家には舘岡栗山の作品が数多く所蔵されていました。その中でも下記の作品は傑作の部類でしょう。
八郎潟の憩い 舘岡栗山筆 その8
紙本着色額装 紙タトウ(2018年8月新調)
全体サイズ:横1015*縦848 画サイズ横786*縦615
郷里を持たれている方は一度は自分の郷里出身の画家にどのような画家がいるのか調べてみたらいかがでしょうか? 郷里の縁のある人が大切にしておかないとこれらの作品は埋没していく運命にあるように思います。
さて明日から帰郷しますので、また郷里にちなんだ作品を漁ってきます。