
男の隠れ家を漁っていたら出てきた作品に下記のものがあります。郷里から宅急便で送ったままににしてしばらく放置しておいたのですが、あまりに暑いので外に出ないようにしていた休日に梱包を開けてみることにしました。
忘れ去られた作品 牡丹蒔絵 硯婦多
塗古箱
幅451*奥行320*高さ46

牡丹が蒔絵で描かれた作品で実際に使用していたのでしょう、使った跡の傷がありますが総じて大きな欠点はありません。

保存箱には「硯婦多」と記されていますが、「硯の蓋?」、そう「硯蓋」という道具らしいです。ご存知の方は少ないと思いますが、硯に蓋をする?・・・いいえ違います。
さて調べてみたら下記の記事がインターネット上にありました。
************************************
硯蓋:酒のさかななどを盛るのに用いた器で,江戸時代に使われた。すずり箱の蓋に薄様(うすよう)などの紙を敷いて,菓子,木の実,果物,ときには雪のようなものさえ盛って供することは,平安期以降しばしば見られたことであるが,そのすずり箱の蓋を独立した食器として作るようになったのが「すずり蓋」である。
山東京伝は《骨董(こつとう)集》の中で,〈重箱に肴(さかな)を盛(もる)ことは元禄の末にすたれ,硯蓋に盛ことは宝永年中に始りしとおもはる〉といい,喜多村節信(ときのぶ)も《嬉遊笑覧》にほぼ同じ見解を示している。
************************************
上記の記事は世界大百科事典からの抜粋です。記事の内容から本作品の製作時期は江戸期と推定されます。「硯婦多」の「婦」と「多」はひらがなであり、この漢字はひらがなの「ふ」と「た」に普通に使われていたというのが家内からの説明です。

本日メインで紹介する作品の手前に飾ってみました。
家内と二人で調べましたが「骨董を調べるといろんなことが解るね~」と二人で話しました。この「硯蓋」も今となっては貴重な作品かもしれませんね。

説明書を添えてきちんした保存方法にしておき、男の隠れ家にまた収めておきます。
さて本日はその作品と一緒に展示室に展示された作品の紹介です。三木翠山の美人画はあまり知られていることがないのか手頃な値段で入手でき、本作品で5作品目の紹介となります。
忘れ去られた画家 二美人図 三木翆山筆 その5
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1750*横570 画サイズ:縦1095*横435

***********************************
三木翆山:(みき すいざん)明治16年〈1883年〉7月20日~昭和32年〈1957年)3月25日〉。大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。
兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。
*本作品はこの頃、大正6年の作と推定されます。

翠山は美人画を得意としており大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催する。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。
昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始める。一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。
晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。
***********************************
「実にいろんな意味で初々しい作」という表現が適切な評の作品です。

「悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。」ということも現在では三木翠山の作品が人気のない原因のひとつかもしれませんね。

この当時は大正ロマンと呼ばれるように多くの美人画を描く画家を輩出した時代です。

その多くの美人画家を輩出した時代に独自の画風というのが必要だったことが容易に推測できますが、偏ることのない清廉な画風を貫いた画家と言えましょう。

着物の表現もきれいです。

竹久夢二、島成園、甲斐庄楠音らの特徴ある美人画や、夢二に継ぐ多くの大正ロマンと包括される美人画には追随しなかった画家といえるのでしょう。

落款に「丁巳初秋 翠山生写 押印」と記されており、1917年(大正6年)、30歳の時の作品と推定されます。初期の頃の美人画と推定されますが、落款の書体が晩年とは大きく違い、このことが真贋の判定を難しくしています。

当方にある作品の作品と落款を改めて整理してみたのが下記の作品らです。
観桜美人図 三木翆山筆 その2
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540


観桜美人図 三木翆山筆
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540


本読む娘 三木翆山筆
絹本着色 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦2070*横545 画サイズ:縦1155*横405


美人画以外には下記の作品があります。
月下老狸図 三木翆山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1990*横575 画サイズ:縦1280*横425


年代とともに整理していないし、真贋も含めてきちんと整理する必要のある画家の作品のひとつです。ただ美人画は贋作が多いので「狸に化かされる。」というのが本日のおち・・・
美人と関わらないほうが身のためというのが小生の人生訓
ただし家内は別
本作品は保存箱もなく、軸先が片側がないなど粗雑にされていたようですので、きちんと保存にしておく必要がありそうです。美人と関わるとお金がかかるらしい・・。

正当な美人画としてやがて鏑木清方・上村松園・伊東深水らが美人画の路線を修正していきますが、三木翠山も忘れてはならない画家の一人だ思います。少しづつ整理を進めていきたい画家です。
本日は「忘れ去られた作品」と「忘れ去られた画家」の紹介でした。
忘れ去られた作品 牡丹蒔絵 硯婦多
塗古箱
幅451*奥行320*高さ46

牡丹が蒔絵で描かれた作品で実際に使用していたのでしょう、使った跡の傷がありますが総じて大きな欠点はありません。

保存箱には「硯婦多」と記されていますが、「硯の蓋?」、そう「硯蓋」という道具らしいです。ご存知の方は少ないと思いますが、硯に蓋をする?・・・いいえ違います。
さて調べてみたら下記の記事がインターネット上にありました。
************************************
硯蓋:酒のさかななどを盛るのに用いた器で,江戸時代に使われた。すずり箱の蓋に薄様(うすよう)などの紙を敷いて,菓子,木の実,果物,ときには雪のようなものさえ盛って供することは,平安期以降しばしば見られたことであるが,そのすずり箱の蓋を独立した食器として作るようになったのが「すずり蓋」である。
山東京伝は《骨董(こつとう)集》の中で,〈重箱に肴(さかな)を盛(もる)ことは元禄の末にすたれ,硯蓋に盛ことは宝永年中に始りしとおもはる〉といい,喜多村節信(ときのぶ)も《嬉遊笑覧》にほぼ同じ見解を示している。
************************************
上記の記事は世界大百科事典からの抜粋です。記事の内容から本作品の製作時期は江戸期と推定されます。「硯婦多」の「婦」と「多」はひらがなであり、この漢字はひらがなの「ふ」と「た」に普通に使われていたというのが家内からの説明です。

本日メインで紹介する作品の手前に飾ってみました。
家内と二人で調べましたが「骨董を調べるといろんなことが解るね~」と二人で話しました。この「硯蓋」も今となっては貴重な作品かもしれませんね。

説明書を添えてきちんした保存方法にしておき、男の隠れ家にまた収めておきます。
さて本日はその作品と一緒に展示室に展示された作品の紹介です。三木翠山の美人画はあまり知られていることがないのか手頃な値段で入手でき、本作品で5作品目の紹介となります。
忘れ去られた画家 二美人図 三木翆山筆 その5
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1750*横570 画サイズ:縦1095*横435


***********************************
三木翆山:(みき すいざん)明治16年〈1883年〉7月20日~昭和32年〈1957年)3月25日〉。大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。
兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。
*本作品はこの頃、大正6年の作と推定されます。

翠山は美人画を得意としており大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催する。昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。
昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始める。一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。
晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。
***********************************
「実にいろんな意味で初々しい作」という表現が適切な評の作品です。

「悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後(昭和32年3月25日)失意のうちに急逝。」ということも現在では三木翠山の作品が人気のない原因のひとつかもしれませんね。

この当時は大正ロマンと呼ばれるように多くの美人画を描く画家を輩出した時代です。

その多くの美人画家を輩出した時代に独自の画風というのが必要だったことが容易に推測できますが、偏ることのない清廉な画風を貫いた画家と言えましょう。

着物の表現もきれいです。

竹久夢二、島成園、甲斐庄楠音らの特徴ある美人画や、夢二に継ぐ多くの大正ロマンと包括される美人画には追随しなかった画家といえるのでしょう。

落款に「丁巳初秋 翠山生写 押印」と記されており、1917年(大正6年)、30歳の時の作品と推定されます。初期の頃の美人画と推定されますが、落款の書体が晩年とは大きく違い、このことが真贋の判定を難しくしています。



当方にある作品の作品と落款を改めて整理してみたのが下記の作品らです。
観桜美人図 三木翆山筆 その2
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540


観桜美人図 三木翆山筆
絹本着色 軸先 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1400*横540


本読む娘 三木翆山筆
絹本着色 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦2070*横545 画サイズ:縦1155*横405


美人画以外には下記の作品があります。
月下老狸図 三木翆山筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦1990*横575 画サイズ:縦1280*横425


年代とともに整理していないし、真贋も含めてきちんと整理する必要のある画家の作品のひとつです。ただ美人画は贋作が多いので「狸に化かされる。」というのが本日のおち・・・

美人と関わらないほうが身のためというのが小生の人生訓


本作品は保存箱もなく、軸先が片側がないなど粗雑にされていたようですので、きちんと保存にしておく必要がありそうです。美人と関わるとお金がかかるらしい・・。

正当な美人画としてやがて鏑木清方・上村松園・伊東深水らが美人画の路線を修正していきますが、三木翠山も忘れてはならない画家の一人だ思います。少しづつ整理を進めていきたい画家です。
本日は「忘れ去られた作品」と「忘れ去られた画家」の紹介でした。