夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

鳳凰唐草文様堆朱香合

2011-09-04 05:59:48 | 漆器
親に甘やかされた人間に共通事項があるように思えてしかたがありません。どうも片づけが悪いことのようです。代々これは受け継がれる危険性があるようで・・。親が子供を甘やかすと碌なことはありません。友人思い、人付き合いがよいなど傍目からはいいように見えても、自分に厳しさがない 

恨まれ役にはなれない 

そういう人間が増えすぎた



鳳凰唐草文様堆朱香合
合箱
幅70*奥行き70*高さ28


父は戦争中は満州にいたらしいです。引き上げ船が夜中に沈没し、船につかまって夜明けを迎えたら、陸地がすぐ近くで助かったそうです。陸地と反対に向かって泳いで行った人が多数いたらしいです。父がここで亡くなっていたら私は生まれていませんでした。



その当時、満州で知り合った人から頂いた作品と聞いています。真偽ほどは解りませんし、堆朱にも詳しくないので中国の作品かどうかも断定できません。

プラスチック製のものを堆朱に見せかけてものもあり、また彫り物に漆を塗ったものもあるようです。家には仙台堆朱の盆などが2,3作品がありますが、こちらは本来の堆朱ではなさそうです。

さて本作品はどのようなものなのでしょうか? 




水屋の茶道具の引き出しから見つけ出し、合箱を製作して保存しておいたものを、先日の帰省の際にまた見つけたものです。



香合として可愛らしいいい作品です。


堆主:彫漆(ちょうしつ)技法の一種。器胎(きたい)の上に朱漆(しゅうるし)を何層にも塗り重ね、その上に文様を浮彫りしたもの。黒漆を用いる場合は堆黒(ついこく)、ほかに堆黄(ついこう)、堆緑などがある。鎌倉時代に宋(そう)から舶載されたが、中国での名称は剔紅(てきこう)、剔黒、剔黄、剔緑という。また、塗り重ねた各色の漆の色を彫り表したものを彫彩漆(ちょうしつうるし)、花を朱、葉を緑で表したものは紅花緑葉(こうかろくよう)ともよばれる。文献上では唐代が起源とされ、また明(みん)代に著された『清秘閣』には、剔紅の多くは金銀を素地(きじ)とし、文様が人物楼閣花草であったことが記されている。制作の盛行は宋代以降であるが、元(げん)代末(14世紀中ごろ)の作と思われる江蘇(こうそ)省青浦(せいほ)県元墓出土の踏雪尋梅図剔紅円盒(えんごう)が制作年代のほぼ明らかな初期の作例で、蓋(ふた)表に、一老人が童子を従え、雪を踏んで梅を訪ねる図をかなり写生的に表している。この時代の堆朱器はわが国にもかなり遺例が多く、代表的なものにはいずれも重要文化財の紫萼(しがく)文香盆(滋賀県・聖衆来迎(しょうじゅらいごう)寺)、椿尾長鳥(つばきおながどり)文香盆(興臨院)、牡丹孔雀文香盆(京都・大仙院)などがある。これらの図様はきわめて写生的で、肉どりによる浮彫りにも写実的配慮がうかがわれる。またこの時期の優れた作家に浙江(せっこう)省嘉興(かこう)府西塘(さいとう)楊匯(ようわい)出身の張成と楊茂(ようも)がおり、15世紀初頭には張成の子の徳剛が官営工房の果園廠(しょう)で剔紅に活躍した。その後は文様の構成が一段と複雑になり、細部にわたって意が用いられ、変わった器形や着想のもとで鑑賞性に富む装飾的なものが出現、17世紀以降の清(しん)代にはさらに鑑賞性を目ざす造形へと進んだ。

わが国では鎌倉・室町期に盛んに輸入され唐物(からもの)として珍重されたが、初めて模作したのは南北朝時代の延文(えんぶん)年間(1356~61)に堆朱楊成(ようぜい)の初代長充(ちょうじゅう)であるとする説、室町中期の文明(ぶんめい)年間(1469~87)に京都の堆朱工門入(もんにゅう)であるとする説がある。なお、漆を塗り重ねる手間を省くため素地に図柄を加工した上に朱漆を塗る模造法として、新潟の村上堆朱や仙台市の東華(とうか)堆朱などがある。

香合:香合(こうごう)とは、香を収納する蓋付きの小さな容器。茶道具の一種であり、また仏具の一種でもある。香蓋とも書かれるが当て字。また合子(ごうす、ごうし)ともいう。
茶道における香合:茶を点てる前の湯を沸かす時に炉等で焚くための香を、あらかじめ香合に入れる。香合の中には必ず3個入れておき、その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせる。残り1個はそのまま拝見に回す。風炉と炉では用いる香が違うため、異なる香合を用いる。






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