先週にて庭の剪定作業が終わりました。
高所作業車を2台使用しての年1回の大掛かりな作業です。おかげさまで庭がすっきりしました。
さて本日の作品紹介は寺崎廣業の作品です。寺崎廣業は陶淵明を画題とした作品は幾点かありますが、本日紹介する作品はその中でも若い頃の佳作と言える横長の大きな作品です。
寺崎廣業は若い頃は「放浪の画家」と称せるように不遇の時期を過ごしています。その時代に陶淵明の詩や生き方に共鳴する点が多かったのでしょう。陶淵明を題材にした作品が数多く遺っています。
不遇の時代の作品 陶淵明図 寺崎廣業筆 明治22年作
東京美術倶楽部鑑定書添(鑑定NO90-424 平成2年11月10日)
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1450*横975 画サイズ:縦916*横377
陶淵明と菊については陶淵明の「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る。(きくをとるとうりのもと、ゆうぜんとしてなんざんをみる)」という有名な漢詩があります。
「飲酒」という詩の一節からで「俗世間から離れ、心にもの思うこともなく、自然を楽しんで生きる心境を現すもの」ですが、勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心境をうたっています。
陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれましたが就任を辞退します。
399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任しています。
404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕えますが、これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったようですが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任しています。
405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となりますが、80数日後の11月には辞任して帰郷しています。
以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民とともに「潯陽の三隠」と称されています。
陶淵明の詩は世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものでした。陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点があります。陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として評価されていきます。
陶淵明は魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴があります。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾嶸が紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったようですが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、癯にして実は腴なり」のように高い評価が確立するようになります。
一方の寺崎廣業は若い頃は「放浪の画家」と称せるように不遇の時期を過ごしています。
慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれており、寺崎家も藩の重臣でした。しかし父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられます。幼児から絵を好みすぐれていたとされますが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学しています。
10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたそうで、秋田医学校にも入学しますが学費が続きませんでした。
結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印しましたが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になっています。生活はようやく安定しますが絵への心は少しも弱まらなかったようです。寺崎廣業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいましたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京します。
上京し平福穂庵、ついで菅原白龍に入門しますが、寺崎廣業は4か月でまた放浪の旅に出ます。その際には穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたとされます。その時は1888年(明治21年)春23歳の頃で、この年の夏に本作品を描いています。穂庵のくれた三つの印形の中に本作品中の印があった可能性が高いですね。
足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し、ようやく美人画で名を挙げることになります。その後1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をしますが、ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたとされます。
1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えますが、火災に遭って模写した粉本の多くは焼失します。
*ただし当方の所蔵作品にはこの時の貴重な粉本があります。
避難して一時長屋暮らしをしたこともあったようですが、1898年(明治31年)には東京美術学校助教授に迎えられ、その後は大いに画名を高めていくことになります。
作品には東京美術倶楽部の鑑定証が添付されています。
落款には「為片屋仁君□□ 明治己丑(明治22年 1889年) 首夏□浣日 廣業写 押印」と記されており、明治22年の23歳頃に描かれた作品と解かります。為書きがあるのですが、「片屋仁」なる人物などの詳細は不明です。
落款の書体は当方の所蔵作品「老之瀧之図(明治22年)」や「唐美人図(明治20年)」と一致していますが、この書体の落款の期間は短いですね。また押印されている印章は明治20年代から明治末・大正期初期までの長い間にわたって使用されてます。
いずれにしても寺崎廣業の新発見の作品である可能性があります。美術館などや図集で見飽きた代表作などはもはやいいとして、このような作品を鑑賞できるのも蒐集家の特権・・。