
この作品を観て川合玉堂の作品と解る人はちょっと骨董をかじった程度、この作品を観て何を描いたか解る人は骨董を趣味としている人・・・。この違いは大きい。
すすきみみづく 色紙 川合玉堂筆
紙本水墨淡彩額装 タトウ入
全体サイズ:縦485*横455 画サイズ:縦272*横242

家内はこの絵を見て「誰の絵?」と尋ねてきました。「川合玉堂さ」と小生が答えると家内は歌を即座に読んで、何を描いているか解ったようです。絵には題名などの資料はなく「梟画賛」とされていましたが・・・。

賛は「家つとの みみつく見れば むさし野に 尾花をひきし むかしのものかも 愚庵 押印」とあります。
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家つと:〈包む〉という語は〈苞(つと)〉と語源を同じくするが,〈苞〉とはわらなどを束ねてその両端を縛り,中間部で物をくるむもの(藁苞(わらづと))であり,後には贈物や土産品の意味(家苞(いえづと))にも使われるようになった。また心理的方面においては〈包む〉は〈慎しむ〉に通じて〈隠す〉〈秘める〉〈はばかる〉といった意味合いを含み,ことに儀礼的局面におけるさまざまな〈包み〉の技法の心理的背景となってきた。…
【土産】より:旅先や外出先でその土地の産物を求めて帰り,家族や餞別(せんべつ)をくれた者などに配る品,また人を訪問する際に持参するいわゆる手みやげをもいう。古くはつと(苞)と称し,〈家づと〉〈都のつと〉などと用いた。つとは納豆を包んだりするわらづとなどにその名をとどめているように,元は持ち運びに便利な包物のことを指した
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家内からの説明を聞いて納得・・、我が家は夫婦二人で力を合わせてようやく骨董を趣味とするレベルに達した程度。
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すすきみみずく:東京都豊島区の郷土玩具で、ススキの穂を束ねて作られたみみずくの人形。 鬼子母神のお告げによって作られるようになったとされており、雑司が谷鬼子母神の参詣みやげとして販売されている。昔むかし、貧しさゆえに病気の母親の薬を買えなかった娘が鬼子母神に祈ったところ、夢の中に鬼子母神が現れて、「ススキの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」と告げた。娘がその通りにしたところ、みみずくは飛ぶように売れ、そのおかげで薬を買うことが出来たという。

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今ではこの玩具を作っている人はいるのだろうか?

川合玉堂は俳画には号として「偶庵」を用いていますが、その理由は下記のように「第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。」ことによります。

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川合玉堂:1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。
師・玉泉の"玉"と、外祖父・竹堂の"堂"をとって「玉堂」と名を改め、「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)には当初より参加。
1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、同地で1957年(昭和32年)没した。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。玉堂には長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいた。
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俳画や詩歌の賛のある作品で当方にて縁があった作品には下記の作品があります。賛は清水比庵によるもので、母の実家で所蔵していた作品です。川合修二鑑題箱で登録NOの割り印がありました。
参考作品解説
秋の□ 川合玉堂画 清水比庵賛
和紙水墨賛画軸装 折補修有 川合修二鑑題箱 登録NO有
画サイズ:縦318*横428

玉堂の画に清水比庵の賛が書かれている作品、この二人の組み合わせの合作はよくみけます。
賛は「ねながらに 月はみえね(禰奈可良爾 月者三衣禰) ど つきのまへに 鳴聲(登 つ支の末へ爾 鳴聲) みちたる 虫のきこゆる(みち多留 虫のきこ遊類)」のようです。

秋の夜の風物といえば月と虫の声。それを画には描かないで、田舎屋に月がかかって虫の声がしているという画と字の連携で秋色濃厚な1枚・・・・という作品でしょう。
前述の作品にしろ、この作品にしろ骨董の鑑賞には知識が要るようですね。
すすきみみづく 色紙 川合玉堂筆
紙本水墨淡彩額装 タトウ入
全体サイズ:縦485*横455 画サイズ:縦272*横242

家内はこの絵を見て「誰の絵?」と尋ねてきました。「川合玉堂さ」と小生が答えると家内は歌を即座に読んで、何を描いているか解ったようです。絵には題名などの資料はなく「梟画賛」とされていましたが・・・。

賛は「家つとの みみつく見れば むさし野に 尾花をひきし むかしのものかも 愚庵 押印」とあります。
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家つと:〈包む〉という語は〈苞(つと)〉と語源を同じくするが,〈苞〉とはわらなどを束ねてその両端を縛り,中間部で物をくるむもの(藁苞(わらづと))であり,後には贈物や土産品の意味(家苞(いえづと))にも使われるようになった。また心理的方面においては〈包む〉は〈慎しむ〉に通じて〈隠す〉〈秘める〉〈はばかる〉といった意味合いを含み,ことに儀礼的局面におけるさまざまな〈包み〉の技法の心理的背景となってきた。…
【土産】より:旅先や外出先でその土地の産物を求めて帰り,家族や餞別(せんべつ)をくれた者などに配る品,また人を訪問する際に持参するいわゆる手みやげをもいう。古くはつと(苞)と称し,〈家づと〉〈都のつと〉などと用いた。つとは納豆を包んだりするわらづとなどにその名をとどめているように,元は持ち運びに便利な包物のことを指した
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家内からの説明を聞いて納得・・、我が家は夫婦二人で力を合わせてようやく骨董を趣味とするレベルに達した程度。
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すすきみみずく:東京都豊島区の郷土玩具で、ススキの穂を束ねて作られたみみずくの人形。 鬼子母神のお告げによって作られるようになったとされており、雑司が谷鬼子母神の参詣みやげとして販売されている。昔むかし、貧しさゆえに病気の母親の薬を買えなかった娘が鬼子母神に祈ったところ、夢の中に鬼子母神が現れて、「ススキの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」と告げた。娘がその通りにしたところ、みみずくは飛ぶように売れ、そのおかげで薬を買うことが出来たという。

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今ではこの玩具を作っている人はいるのだろうか?

川合玉堂は俳画には号として「偶庵」を用いていますが、その理由は下記のように「第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。」ことによります。

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川合玉堂:1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。
師・玉泉の"玉"と、外祖父・竹堂の"堂"をとって「玉堂」と名を改め、「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉天心、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院(1898年)には当初より参加。
1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、同地で1957年(昭和32年)没した。日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。玉堂には長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいた。
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俳画や詩歌の賛のある作品で当方にて縁があった作品には下記の作品があります。賛は清水比庵によるもので、母の実家で所蔵していた作品です。川合修二鑑題箱で登録NOの割り印がありました。
参考作品解説
秋の□ 川合玉堂画 清水比庵賛
和紙水墨賛画軸装 折補修有 川合修二鑑題箱 登録NO有
画サイズ:縦318*横428

玉堂の画に清水比庵の賛が書かれている作品、この二人の組み合わせの合作はよくみけます。
賛は「ねながらに 月はみえね(禰奈可良爾 月者三衣禰) ど つきのまへに 鳴聲(登 つ支の末へ爾 鳴聲) みちたる 虫のきこゆる(みち多留 虫のきこ遊類)」のようです。

秋の夜の風物といえば月と虫の声。それを画には描かないで、田舎屋に月がかかって虫の声がしているという画と字の連携で秋色濃厚な1枚・・・・という作品でしょう。
前述の作品にしろ、この作品にしろ骨董の鑑賞には知識が要るようですね。