
熱海に澤田政廣記念美術館があり、以前に訪れたことがあります。叔父が所蔵していた澤田政廣の聖観音像を見せていただいたことがあり、興味深く作品を鑑賞してきましたが、澤田政廣の絵画に興味を持ったのこの来館の時からです。

その後なんどか澤田政廣の水彩画などを入手する機会はあったのですが、やり過ごしていました。どうも多作だったこともあり、皆同じような作品であり、さらにピンとくる作品が少なかったためかもしれません。
この度は澤田政廣の油彩の作品を入手してみました。入手先では真作だと主張していますが、相変わらず真作かどうかは解りませんので、「伝」の作品としてご理解ください。
氏素性の解らぬ作品 裸婦 伝澤田政廣画
下地板油彩額装 左下サイン タトウ+黄袋
画サイズF4号:横320*縦230 全体サイズ:横560*縦460

もともと澤田政廣は画家を目指していましたようです。簡単な略歴は下記のとおりです。
*****************************************
澤田政廣:1894年8月22日~1988年5月1日、享年93歳。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。

*ローマ字でのサインは「SEIKO」としています。
生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。
同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。
同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。
6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。
48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。
ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。
*****************************************
私はこの作品は好きです。なんともごつい感じの裸婦・・・。まるで初期の棟方志功の油絵のような感じですね。

油彩をふんだんに盛って塑像のごとく描かれています。

澤田政廣の油彩に関しての資料は当方には皆無ですので、真贋はよく分かりません。
この作品が自宅に届き梱包を小生が開けていると小学校1年生の息子が
「パパ、これ本物?」と質問してきました。
「それが問題なのさ、ま~神のみぞ知る ということかな?」と答えたら
「え~、神の味噌汁?」・・・・
最近どうもこの類の会話が息子とは多い・・。

描かれているのは布地のキャンパスではなく、ご覧のように板です。

澤田政廣の作品と推定させる根拠は「SEOKO」というサインのみです。
*「政廣」は「晴廣」と号したことがあるのかな? 少なくても「せいこう」と読むのは確からしい。

しばし飾って鑑賞中・・・。

その後なんどか澤田政廣の水彩画などを入手する機会はあったのですが、やり過ごしていました。どうも多作だったこともあり、皆同じような作品であり、さらにピンとくる作品が少なかったためかもしれません。
この度は澤田政廣の油彩の作品を入手してみました。入手先では真作だと主張していますが、相変わらず真作かどうかは解りませんので、「伝」の作品としてご理解ください。
氏素性の解らぬ作品 裸婦 伝澤田政廣画
下地板油彩額装 左下サイン タトウ+黄袋
画サイズF4号:横320*縦230 全体サイズ:横560*縦460

もともと澤田政廣は画家を目指していましたようです。簡単な略歴は下記のとおりです。
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澤田政廣:1894年8月22日~1988年5月1日、享年93歳。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。

*ローマ字でのサインは「SEIKO」としています。
生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。
同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。
同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。
6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。
48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。
ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。
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私はこの作品は好きです。なんともごつい感じの裸婦・・・。まるで初期の棟方志功の油絵のような感じですね。

油彩をふんだんに盛って塑像のごとく描かれています。

澤田政廣の油彩に関しての資料は当方には皆無ですので、真贋はよく分かりません。
この作品が自宅に届き梱包を小生が開けていると小学校1年生の息子が
「パパ、これ本物?」と質問してきました。
「それが問題なのさ、ま~神のみぞ知る ということかな?」と答えたら
「え~、神の味噌汁?」・・・・

最近どうもこの類の会話が息子とは多い・・。

描かれているのは布地のキャンパスではなく、ご覧のように板です。

澤田政廣の作品と推定させる根拠は「SEOKO」というサインのみです。
*「政廣」は「晴廣」と号したことがあるのかな? 少なくても「せいこう」と読むのは確からしい。

しばし飾って鑑賞中・・・。