夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

深林避暑 横井金谷筆 その6

2015-05-10 05:25:21 | 掛け軸
紀楳亭と横井金谷はともに近江蕪村と呼ばれた人気の画家で、贋作も多かったのですが、今では一部の愛好家にしか知れれていない画家となりました。真作でもそれほど評価は高くないようです。

「近江蕪村」としての画家というより、その実態は大きく違うことを知る人はますます少ないようです。

深林避暑 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1850*横383 画サイズ:縦1062*横272



画家というよりは僧侶でありながら、若くして遊郭に通う、博打は打つ、喧嘩はする。どうしようもない輩ですね。

一所にとどまっていられない性格で行動範囲は広く、9歳で大阪の寺に修行に出されるや、江戸、京都、長崎、赤穂、名古屋と、全国各地を転々とします。仏道修行もそれなりにこなし、頭がよくて説教上手、人々に慕われるタイプの人物でもあったようですが、扱いにくい人物そうです。



旅先で妻帯、子供が出来てからしばらくは名古屋に落ち着きますが、山伏になって大峰山に登り、あげくの果ては子供を連れて、無謀ともいえる季節外れの富士登山という荒唐無稽なところもあるようです。



よく表現すると「闊達で、おもしろおかしく、周囲をさんざんヤキモキさせたり、迷惑をかけながらも、憎めない人柄で、常に周囲に人が寄ってくる人物」となるようです。

その愛すべきキャラクターは、彼の書状に一番よく現れているとのこと。作品は、非常に奔放に筆を走らすダイナミックな山水を描く一方、マンガチックな略筆で、当時の市井の風俗や人物を描いており、好奇心の旺盛ぶりを作画にも発揮しています。



そんな彼は晩年、坂本に庵を構え、米櫃の米が少なくなると、地元の人々に絵を描いては米をわけてもらっていたことが、書状から判明しています。

大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」に掲載の作品NO150、156の作品が描いた時期が落款と印章から近いように思われます。下記の作品はNO156の作品です。

作品NO156「寒江漁者図」(個人蔵)
大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」掲載



文化10年(1813年)頃の作でないかと推察されます。横井金谷が52歳頃となります。下記の落款と印章はNO156の作品のものです。



1790年代に現在の名古屋市に居し、張月樵から絵を学んびましたが、1804年頃からは四条派の影響が見られた作品から蕪村の影響のある南画にに変化していきます。この後、横井金谷の特徴として高く評価させる力強い筆使いが見られる作品となります。金谷が文人画に惹かれたのは、明らかに、その線と質感が作り出す筆使いに表現の可能性を認めたためでしょう。

大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」掲載より



金谷は蕪村の静寂で牧歌的な作風に対して実に肉体的でエネルギーに満ち溢れています。1819年には名古屋の大宝院から三河の太山寺に移住し、その後愛知、静岡、兵庫、岡山を旅し、1823年に近江に落ち着きます。この当時に大いに人気を博し「近江蕪村」と呼ばれるようになりました。この地で人気が高かったゆえに、この地には贋作も多く存在するそうです。

紀楳亭と横井金谷は面識は無く、紀楳亭が亡くなった時には横井金谷はまだ名古屋に在住していました。横井金谷の作品は紀楳亭の成熟した画風から影響を受けたように見受けられるものもあります。

晩年の近江における横井金谷の名声は、絵による蕪村というより、彼自身の山伏としての地位によるものでしょう。山伏の絵師が彼の真の姿です。

骨董は真贋云々よりもっと興味深いことがあるのに真贋にばかり目を向ける輩が多いのは煩わしいことです。もともと贋作があるのがいけないことですが・・・。

本作品もまた紙表具で箱もなく売られていた作品です。真贋はいずれ後学とするところ・・。



息子よ、自由に生きよ! 決まりごとだけでは真を極められない・・・。


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