夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

16歳の時の作 桃園結義之図 寺崎廣業筆 明治15年(1882年)その98

2022-07-29 00:01:00 | 掛け軸
夜の9時過ぎても音沙汰のない息子を覗いていたら、書斎の小生の椅子で熟睡・・・。夏休みで遊び疲れとな暑さのせいかな? なんとも器用に寝るもの・・・。



さて本日紹介する作品は当方で蒐集された寺崎廣業の作品中では「もっと早い時期に描かれた作品」で、出来云々より資料的に非常に価値の高い作品と思います。


桃園結義之図 寺崎廣業筆 明治15年(1882年)
絹本着色軸装 鳥谷幡山鑑定箱 二重箱
全体サイズ:縦2260*横600 画サイズ:縦1260*横460

 

寺崎廣業の修業時代の作品としては、秋田市立千秋美術館所蔵の「仏画」という作品があります。その作品には款記に「明治壬午初春 十六歳秀斎藤原廣業謹画」と記されており、本作品と同じく1882年(明治15年)の春に描かれた作品のようです。この「仏画」の作品は寺崎廣業の作品としてはもっと早い時期に描かれた美術館所蔵作品と思われます。

*本作品は郷里の画家であった小室秀俊(怡々斎)に入門した16歳に描かれた作品と推定されます。門下の鳥谷幡山の鑑定が記されています

 

鳥谷幡山の鑑定箱書には「桃園結義図 寺崎廣業先生真蹟 落款秀斎極彩色力作」と題書され、「昭和乙亥夏日」から1935年(昭和10年)の鑑定と推定されます。「力作」と著されていることから修業時代の代表作と言えるのかもしれません。

同封の所蔵者とされていた小泉常太郎氏についての詳細は不明です。

  

桃園結義とは劉備と関羽、張飛の三人が満開の桃の園で義兄弟の契りを結び、「上は国家に報じ、下は人民を安んぜん」と、まずは黄巾賊との戦いを誓ったという有名な故事のことです。

これくらいのことは知っていないと骨董蒐集者とは言えませんね・・???


寺崎廣業は慶応2年に生まれ、大正8年に没しています。享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれ、幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号していますが、各々の号によっておおよその描かれた年代が解ります。


寺崎廣業は初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めます。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであったようです。努力の画家、放浪の画家と称される一方で、晩年の生活は派手であったようです。


若い頃を詳細に記してみましょう。

寺崎廣業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれました。寺崎家も藩の重臣でしたが、父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられます。幼児から絵を好みすぐれていたというが家が貧しく、10代半ば独り秋田に帰り、牛島で素麺業をやったりしたとされます。秋田医学校にも入ったようですが学費が続かなかったとされます。


結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門し、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印しましたが、生活は苦しく鹿角に至った時に戸村郡長の配慮で登記所雇書記になります。いわば市の臨時職員といったところでしょうか? 本作品はこの頃に描かれた作品です。


このように若い頃に苦労しており、後に放浪の画家といわれました。職によって生活はようやく安定しますが絵への心は少しも弱まらなかったようです。

寺崎廣業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいましたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京します。1888年(明治21年)春23歳のことです。


上京すると郷里出身の画家である平福穂庵、ついで平福穂庵や渡辺省亭と親交のあった菅原白龍の門をたたいたとされます。しかし寺崎廣業は4か月でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたとされます。

足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し、ここで描いた挿絵を中心にした美人画で名を挙げることとなります。


その後に1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をします。ここで諸派名画を模写し力量を身に付け、広業の総合的画法の基礎を築いたといわれています。


*当方で紹介した模写の巻物はこの当時の作品でしょう。ただし下記の火事でそのほとんどが焼失したとされていますので、この遺った「模写の巻物」は資料としてかなり貴重とされます。

1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えますが、火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともあったようです。結婚後に「宗山」の号を使い始めます。
1893年(明治26年)から稲田吾山という最初の門下生を迎え入れ、1898年(明治31年)には東京美術学校助教授に迎えられ、その後に隆盛を迎えます。

当方の所蔵ではこの作品の2年後の下記の作品があります。

勿来の関 寺崎廣業筆 明治17年(1884年)頃
絹本着色軸装 合箱入
全体サイズ:縦2010*横560 画サイズ:縦1130*横430


こちらの作品も狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門していた頃の作品だと推定されます。後に19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印していますが、寺崎廣業が画家として名を上げるのはまだ数年先のことです。

この後の寺崎廣業の画歴は当方のブログで作品紹介とともに記されていますが、一度寺崎廣業の作品を年代順に展示していみたいものです。

息子は遊び疲れ、小生は趣味疲れ・・・、似たようなもの・・。



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