夏の帰省前に息子らと母に面会。息子は母の車椅子を押す係になったようです。
中国風の服を着て息子はご満悦・・。そろそろ母と息子の会話は話が合うようになってきました。同じ知的レベルになった??
郷里への帰省は行くときはいつものようにローカル線ですが、帰京は息子には初めての飛行機の予定です。いつものように先頭に陣取り、「あっ、トンネル!」と大騒ぎ。
さて本日は池田焦園の作品の紹介、「その3」になります。この作品を投稿した意図は、拙文を最後まで読まれた方にはお解りいただけるかと思います。
菖蒲 池田焦園筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦1285
1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えたものです。
落款の字体、印章が「百合」となっている点から、20歳前後の作品ではないかと推察されます。後の1909年前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となっています。
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閨秀画家が日の目を見るようになったのは、明治四十年創設の文部省美術展覧会、通称「文展」からのようです。優秀作なら性別を問わず出展でき、新聞各紙に詳細な評も載るため俄然注目を集めました。この文展第一回に「物詣で」を出展し、以降第十回の「去年(こぞ)のけふ」まで毎回入選を果たした実力派が、池田蕉園です。
幼い頃より画才に恵まれ、十六才で水野年方の門に入ると、着実に画壇での存在感を示していきますが、のみならず、彼女は憧れの人との恋も実らせました。同門の画家・池田輝方と十七歳のときに婚約します。まさに順風満帆な人生でしたが、そんな彼女を、思いも寄らぬ出来事が襲います。婚約者の輝方が他の女性と駈け落ちしました。さらにはこの顛末が、当時の新聞「万朝報」にて報道されます。わけもわからず醜聞の中に、世間の好奇の目にさらされます。だが皮肉にも、この一件によって彼女の絵は深みを増していくことになります。物憂げな美人画を情感豊かに描き、西の(上村)松園、東の蕉園と言われるほどの名声を博すことになります。絵に打ち込むことで心の痛みを浄化したように思えます。手痛い失恋によって女心の機微を掴み得たのかもしれません。
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入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビューしていますが、「他の所蔵作品 その2 桜狩」がそのような作品であるとすると、まだ少女趣味的な描き方でした。しかし「他の所蔵作品 その1 舞美人図」のような作品になると深みが増しています。
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彼女を奈落の底に突き落とした輝方ですが、八年後に舞い戻り、蕉園に求婚することとなります。蕉園はその申し出を受け入れます。以降ふたりは画壇のおしどり夫婦として創作に励み、屏風などの共作にも意欲的に取り組みます。
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蕉園がそれほど輝方に惚れていたとも言えますが、記事には「恋慕だけのことなら、かえって彼の裏切りに拘泥したようにも思われます。彼女には絵という決して裏切らない存在があり、自分に才能があることも知っていたのでしょう。その人間的余裕が恋というより慈悲の心で男を許したのではないか。」そして「能のある女ほど、適度に男を立てて争わない。相手が怖いからではなく、面倒だからでしょうか。男のほうもそれと察し、度量と意地で己の仕事を全うするということでしょう。」という記載があります。
小生が推察するに、実際は男のほうは駆け落ちしたことに深く後悔していたと思います。一番、自分のことを思っていてくれた女性に気がつき、駆け落ちした相手との破局後に焦園に戻ってきたように思います。
結婚後は男性のほうが、女性以上に愛情を深めていたように思います。このような愛情の機微は一般には推し量れないものがあります。蕉園は1917年(大正6年)に結核に倒れていますが、夫輝方は献身的に看病しています。
ちなみに葛飾北斎の娘、応為(おうい)は絵師として一個の天才でしたが、絵を愛好する夫の作を容赦なくけなし続け、ついには離縁を申し渡されています。
菖蒲の花言葉は「やさしい心 あなたを信じます 忍耐、あきらめ」です。本作品の紹介は真贋がどうのこうのではなく、この菖蒲の花言葉に投稿の意図があります。
中国風の服を着て息子はご満悦・・。そろそろ母と息子の会話は話が合うようになってきました。同じ知的レベルになった??
郷里への帰省は行くときはいつものようにローカル線ですが、帰京は息子には初めての飛行機の予定です。いつものように先頭に陣取り、「あっ、トンネル!」と大騒ぎ。
さて本日は池田焦園の作品の紹介、「その3」になります。この作品を投稿した意図は、拙文を最後まで読まれた方にはお解りいただけるかと思います。
菖蒲 池田焦園筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦1285
1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えたものです。
落款の字体、印章が「百合」となっている点から、20歳前後の作品ではないかと推察されます。後の1909年前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となっています。
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閨秀画家が日の目を見るようになったのは、明治四十年創設の文部省美術展覧会、通称「文展」からのようです。優秀作なら性別を問わず出展でき、新聞各紙に詳細な評も載るため俄然注目を集めました。この文展第一回に「物詣で」を出展し、以降第十回の「去年(こぞ)のけふ」まで毎回入選を果たした実力派が、池田蕉園です。
幼い頃より画才に恵まれ、十六才で水野年方の門に入ると、着実に画壇での存在感を示していきますが、のみならず、彼女は憧れの人との恋も実らせました。同門の画家・池田輝方と十七歳のときに婚約します。まさに順風満帆な人生でしたが、そんな彼女を、思いも寄らぬ出来事が襲います。婚約者の輝方が他の女性と駈け落ちしました。さらにはこの顛末が、当時の新聞「万朝報」にて報道されます。わけもわからず醜聞の中に、世間の好奇の目にさらされます。だが皮肉にも、この一件によって彼女の絵は深みを増していくことになります。物憂げな美人画を情感豊かに描き、西の(上村)松園、東の蕉園と言われるほどの名声を博すことになります。絵に打ち込むことで心の痛みを浄化したように思えます。手痛い失恋によって女心の機微を掴み得たのかもしれません。
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入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビューしていますが、「他の所蔵作品 その2 桜狩」がそのような作品であるとすると、まだ少女趣味的な描き方でした。しかし「他の所蔵作品 その1 舞美人図」のような作品になると深みが増しています。
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彼女を奈落の底に突き落とした輝方ですが、八年後に舞い戻り、蕉園に求婚することとなります。蕉園はその申し出を受け入れます。以降ふたりは画壇のおしどり夫婦として創作に励み、屏風などの共作にも意欲的に取り組みます。
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蕉園がそれほど輝方に惚れていたとも言えますが、記事には「恋慕だけのことなら、かえって彼の裏切りに拘泥したようにも思われます。彼女には絵という決して裏切らない存在があり、自分に才能があることも知っていたのでしょう。その人間的余裕が恋というより慈悲の心で男を許したのではないか。」そして「能のある女ほど、適度に男を立てて争わない。相手が怖いからではなく、面倒だからでしょうか。男のほうもそれと察し、度量と意地で己の仕事を全うするということでしょう。」という記載があります。
小生が推察するに、実際は男のほうは駆け落ちしたことに深く後悔していたと思います。一番、自分のことを思っていてくれた女性に気がつき、駆け落ちした相手との破局後に焦園に戻ってきたように思います。
結婚後は男性のほうが、女性以上に愛情を深めていたように思います。このような愛情の機微は一般には推し量れないものがあります。蕉園は1917年(大正6年)に結核に倒れていますが、夫輝方は献身的に看病しています。
ちなみに葛飾北斎の娘、応為(おうい)は絵師として一個の天才でしたが、絵を愛好する夫の作を容赦なくけなし続け、ついには離縁を申し渡されています。
菖蒲の花言葉は「やさしい心 あなたを信じます 忍耐、あきらめ」です。本作品の紹介は真贋がどうのこうのではなく、この菖蒲の花言葉に投稿の意図があります。