夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

寛政庚申浅絳夏日山水図 伝釧雲泉筆 寛政12年(1800年) その34(真作分類番号)

2022-10-01 00:01:00 | 掛け軸
9月の3連休に出かけた先でリニアモーターの試乗・・。二人での試乗の体重制限は100キロ。ちょっとオーバー、ちゃんと浮いていたよう・・?



本日は久方ぶりに釧雲泉の作品紹介です。

本作品の落款には「庚申夏日冩於黄備之寓居 雲泉岱就 押印(雲泉之印:白文朱方印)」とあります。よって寛政12年(1800年)の夏に描かれた作品と推定されます。

*「黄備之寓居」と記される釧雲泉の作品には多くの贋作があり要注意ですね。




寛政庚申浅絳夏日山水図 伝釧雲泉筆 寛政12年(1800年)その34
水墨淡彩絹本軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横570 画サイズ:縦1230*横450

  


釧雲泉の来歴には「寛政3年3月(1791年)、32歳のとき予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中に赴き森岡邸に身を寄せる。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。寛政12年(1800年)、41歳のとき備州を去り大坂に移り住んだ。」とあります。


*このように「寛政12年(1800年)まで備前に滞在し、同年の41歳のとき備州を去り大坂に移り住んだ。」とありますから、本作品が真作なら少なくても夏にはまだ備洲に滞在しており、その時の作と推定されます。

*その根拠となるかどうかは経緯は不明ですが、本作品は岡山県からの入手です。


旅先からの入手と言っても油断ならない。かえって贋作が多いものです。


他の作品へのブログへのコメントには「黄微(備)」については、単純に「岡山地方」(吉備)滞在時という解釈で良いと私は思います。研究者の岡村鉄琴氏は雲泉遺墨集図3の寛政4年桃源図「於黄微イン之寓舎」との署名に対して、この黄微は、「吉備、即ち岡山滞在時の制作を示すものであろう」と述べておられますが、「黄微」の署名が結構多いことから私も同様に考えています。なお、雲泉遺墨集の図4には、ご紹介の作品と同年の作品も掲載されており、その款記にも「癸丑嘉平月 黄微客樵 岱就」と記されております。また大村西崖氏も、遺墨集の序文において「寛政4,5年の頃は、三備地方に居たと見えて、当時の作が今尚岡山県地方に遺っている。」とあります。


当方の他の所蔵作品に同じ年の12月に描かれた作品が2作品あります。


大阪に移り住むようになると年号も享和年間となり、釧雲泉の画風も変わってきます。

「岱就」の書体、「雲泉」の書体には違和感がありませんが、印章は未確認のものです。筋はよさそうですが・・。

 





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