夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

山柿 麻田辨自筆 その3

2017-08-23 00:01:00 | 掛け軸
田舎では田んぼを息子と散策。大きな秋田蕗が見当たらず小さな蕗で傘代わり。「茎の部分が食べられるよ。」という家内の説明を息子は理解したようです。



本日もちょっと季節はずれの作品の紹介です。

ところで我が家には父の頃から家に麻田鷹司の作品がありました。その作品は小生が結婚して山形市内に居を構えた時に母から譲り受けました。父は小生が中学校に進学してすぐに亡くなっておりましたが、母はこの作品を家のどこに飾っていたのかちょっと覚えていません。玄関には福田豊四郎、応接間には向井久万、福沢一郎・・・・、玄関からの廊下だったかな?

海の見える風景 麻田鷹司筆
紙本着色額装 
画サイズ:横415縦315 F6号



当時、小生が作成した説明文は下記のとおりです。

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麻田鷹司は昭和62年没、享年58歳。創画会創立会員、京都美術学校卒業。武蔵美術大学教授。創画会の発足は昭和49年、その前身は新制作協会であり、父の友人である福田豊四郎と関係があり、そのようなことから当方で所蔵するようになったものと窺われる。

写生を嫌った横山大観は昭和5年、画面外に霊性を暗示する独自な象徴主義的精神主義を主張するが、院展の床の間的鑑賞主義を嫌った川端龍子は同院を脱退、昭和4年、同志を引き連れて青龍社を結成する。そこで洋風は常識であり、庶民のための剛健な芸術、会場に即した大作を制作の目標とした。昭和13年には、吉岡堅二、福田豊四郎らかつての帝展特選受賞者を中心に日本画のアヴァンギャルドと呼ばれた新美術人協会が結成され、キュービズムやシュールレリズムを積極的に日本画に導入するが、この運動が戦後の創画会に受け継がれ、従来の日本画の因襲に囚われずに世界性に立脚した第3次洋画化時代を現出した。戦後の厚塗りのマチエールへ移行した。現在は極度に偏りすぎて、どうも好きになれない人が増えている。日本画の原点を見つめ直す時期が再び来ていると思われる。
本作品はわが家の伝世品であり、結婚したとき母から譲り受けた作品である。

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本日紹介します画家の麻田辨自は上記の作品を描いた麻田鷹司の父です。

山柿 麻田辨自筆 その3
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦460*横510


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麻田辨自:明治33年、現在の京都府亀岡市に中西家の次男として生まれる。本名辨次。京都市立絵画専門学校に学び、1921年(大正10)第3回帝展に初入選。



昭和2年に上村松園の弟子麻田ツルと結婚し麻田姓を名乗ることとなる。

1929年(昭和4)に西村五雲に師事し、その画塾「晨鳥社」に入る。また創作版画も手がけ、30年(昭和5)の第11回帝展には日本画作品とともに版画「燕子花其他」を出品。師五雲から受け継いだ即妙な写実的表現による花鳥画で戦前期の官展 (帝展・文展)などに出品を重ねた。



戦後は日展に出品し、1950年(昭和25)第6回日展で《樹蔭》が特選、52年(昭和27)第8回日展《群棲》で特選・白寿賞、59年(昭和34)第2回新日展《風騒》は文部大臣賞を受賞するなど風景画に新境地を開いた。65年(昭和40)日本芸術院賞を受賞。日展評議員、晨鳥社顧問をつとめた。75年(昭和50)京都府美術功労者となる。



著書に『巴里寸描』(1977年)がある。1984年 (昭和59)没、享年84才。日本画家麻田鷹司は長男、洋画家麻田浩は次男。

 

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本作品は共箱でニ重箱に保存されています。

 

小生が思うに、意外に麻田辨自の作品は市場に少ないようです。



麻田鷹司から麻田辨自の作品へ・・・。



常に骨董には輪廻がつきまとわりますが、時にはそれを所蔵している人間も・・・。息子へ小生の輪廻も伝達されていくことを願っています。


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