夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

赤縣名勝画帖 その1 内藤湖南筆 福田眉仙画

2012-07-02 04:47:47 | 日本画
日曜日のテレビ番組「日曜美術館」でも吉川霊華の紹介があったようようです。忘れ去られた画家が注目されだすのは嬉しいことです。昨日は午後からその展覧会を催している近代美術館へ出かけてきました。

さて、週末に掛け軸を整理していたらこんな画帳が出てきました。共箱ともいうべき保存箱に収まっています。




東京方面に転勤になってから入手した作品ですが、どのような経緯で、いくらで入手したかは忘れてしまいました。

 

しかしながら、添え書きをしている内藤湖南は我が郷里である大館の近隣である毛馬内の出身で、亡くなった家内の郷里である綴子の学校で校長を務め、その学校で義父は先生を勤め上げたという縁から、私の所有になった作品であろうと思っています。

骨董を所有するのは縁があること、知識があることがとても大切なことです。

赤縣名勝画帖 内藤湖南筆 福田眉仙画
箱入 胴幅439*縦304




戊午とあり1917年(大正7年)に内藤湖南51歳の書であると推察されます。



何冊か同じようなスケッチ帖がある可能性がありますが、これはかなり力を入れて編集した画帳と思われます。絵の作品以外は絖本(絹本に高級品)に書かれています。



福田眉仙の画12枚が掲載されています。福田眉仙は明治41年、日露役後の中国大陸を、約四年にわたってスケッチ旅行をしましたが、これは師天心から託された南画復興の悲願とともに、眉仙のリアリズムにもとづくものであったろうと言われています。

NO1「慈竹と風供」と題されています。題を著した紙切れは福田眉仙自身によるものと推察されます。



内藤湖南:陸奥国毛馬内村(けまないむら、現秋田県鹿角市)にて生まれる。

秋田師範学校卒業後、1885年綴子小学校校長を勤めた後、1887年(明治20年)に上京。

上京後、記者となり、日露戦争に於いては開戦論を展開し、1907年(明治40年)に京都帝国大学(現京都大学)の文科大学史学科に講師として招かれた(東洋史学講座)。

1909年に教授、1910年に時の総長の推薦を受けて文学博士となり、二十年を東洋史担当として勤め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を創設、京大の学宝とまで呼ばれた。

内藤の論の代表的なものとして、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分けるというものがある。内藤は秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。

邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された。1926年(大正15年)に退官。京都府瓶原村(みかのはら、現加茂町)に隠棲し読書の毎日を過ごした。

1934年(昭和9年)6月26日死去。東山の法然院に葬られた。



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