我が息子はハイハイが盛んで、行くところについてくるし、パソコンに向かって資料を作成していると、すぐ脇にくる始末・・。資料整理がすすみません
達磨のごとくおとなしくしていることを願います。
実家の掛け軸の中に下村観山の「達磨」と題された共箱の箱のみがありました。中身の掛け軸がないので母に聞いてみたところ「身内の誰かが酒飲み代欲しさに中身の軸を抜き取って売ってしまったのかもしません。」とのこと。箱のみではという重いから、機会があれば下村観山の「達磨」の掛け軸を購入してみたいと思っていました。無論、共箱ではない作品をですが・・・。思文閣で売りに出されている作品を購入しようと思って連絡したところ、すでに売却済みだったこともあります。
さ~、本作品をその箱に入れる?? それは贋作製作行為のひとつか・・・ もともとはどんな作品だったでしょうか?
達磨図 伝下村観山筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横413*縦1785 画サイズ:横880*縦285
下村観山の画名を知っておられる方は多いと思います。横山大観らと茨城県五浦に引きこもり画業に勤しんだことは有名です。
下村観山は五浦の作家(横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山)の一人・・・、ところで「五浦の作家」の経過は本ブログを読まれている方々はお分かりですね。下村観山は五浦の作家の中で技量一番の評価を受けています。
下村観山の達磨というと「面壁達磨図」が有名です。そのことについて・・。
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達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もあります。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことのようです。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されてます。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めたそうです。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めました。この慧可が禅宗の第二祖です。以後彼によって、中国に禅宗が広まったとされます。
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされています。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたとも。
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代々幸流の小鼓をもって紀州徳川家に仕える下村家に生まれた観山は、能や仏教など東洋の高い精神性を象徴する画題を好み、それらに関係した人物の肖像画を数多く描いています。この作品は、洞窟の中で面壁九年の修行を行う禅宗の始祖達磨を描いたもので、同じ主題の作品は、福井県立美術館、駿府博物館所蔵作品など数点が知られています。いずれも洞窟の岩壁につく草や苔を表現するため、制作途中で絵を立て掛けて、緑青の顔料を自然に流したと考えられる苦心の試みのあとがうかがわれます。なかでもこの作品は達磨の姿を中央に大きく描いており、旧来にない個性的な相貌を見せる達磨の崇高で求道的な表情に、座禅修行の厳しさを象徴させています。そこには、古画に根拠を求め、深い研究の上に自分なりの意趣を加える観山の作風が良く示されています。落款等より大正前期の制作とみられるが、この時期は大観らと共に日本美術院を再興、代表作の「白孤」「弱法師」を制作した頃にあたる。
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下村観山:明治6年生まれ、昭和5年没(1878年~1930年)、享年58歳。和歌山生まれ。本名は晴三郎。 藤島常興、狩野芳崖、橋本雅邦に師事。東京美術学校を第1回に卒業。明治27年同校助教授に就任。31年日本美術院創立に参加、正員となる。36年イギリスに留学、39年美術院の茨城県五浦(いづら)への移転に従う。40年、第1回分展審査院を務め、「木の間の秋」を発表。大正3年(1914)日本美術院を再興。6年帝院技芸員。8年帝国美術院会員に推されたが辞し、在野精神を貫いた。作品に「白狐」(大正3年)「弱法師(よぼうし)」(大正4年)など。
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雨のようなシミがあったようですが、染み抜きして改装しているようです。 真贋・・・?? じっくり調べることとして、今日はそういう野暮は話はなし・・。
達磨のごとくおとなしくしていることを願います。
実家の掛け軸の中に下村観山の「達磨」と題された共箱の箱のみがありました。中身の掛け軸がないので母に聞いてみたところ「身内の誰かが酒飲み代欲しさに中身の軸を抜き取って売ってしまったのかもしません。」とのこと。箱のみではという重いから、機会があれば下村観山の「達磨」の掛け軸を購入してみたいと思っていました。無論、共箱ではない作品をですが・・・。思文閣で売りに出されている作品を購入しようと思って連絡したところ、すでに売却済みだったこともあります。
さ~、本作品をその箱に入れる?? それは贋作製作行為のひとつか・・・ もともとはどんな作品だったでしょうか?
達磨図 伝下村観山筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横413*縦1785 画サイズ:横880*縦285
下村観山の画名を知っておられる方は多いと思います。横山大観らと茨城県五浦に引きこもり画業に勤しんだことは有名です。
下村観山は五浦の作家(横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山)の一人・・・、ところで「五浦の作家」の経過は本ブログを読まれている方々はお分かりですね。下村観山は五浦の作家の中で技量一番の評価を受けています。
下村観山の達磨というと「面壁達磨図」が有名です。そのことについて・・。
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達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もあります。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことのようです。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されてます。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めたそうです。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めました。この慧可が禅宗の第二祖です。以後彼によって、中国に禅宗が広まったとされます。
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされています。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたとも。
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代々幸流の小鼓をもって紀州徳川家に仕える下村家に生まれた観山は、能や仏教など東洋の高い精神性を象徴する画題を好み、それらに関係した人物の肖像画を数多く描いています。この作品は、洞窟の中で面壁九年の修行を行う禅宗の始祖達磨を描いたもので、同じ主題の作品は、福井県立美術館、駿府博物館所蔵作品など数点が知られています。いずれも洞窟の岩壁につく草や苔を表現するため、制作途中で絵を立て掛けて、緑青の顔料を自然に流したと考えられる苦心の試みのあとがうかがわれます。なかでもこの作品は達磨の姿を中央に大きく描いており、旧来にない個性的な相貌を見せる達磨の崇高で求道的な表情に、座禅修行の厳しさを象徴させています。そこには、古画に根拠を求め、深い研究の上に自分なりの意趣を加える観山の作風が良く示されています。落款等より大正前期の制作とみられるが、この時期は大観らと共に日本美術院を再興、代表作の「白孤」「弱法師」を制作した頃にあたる。
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下村観山:明治6年生まれ、昭和5年没(1878年~1930年)、享年58歳。和歌山生まれ。本名は晴三郎。 藤島常興、狩野芳崖、橋本雅邦に師事。東京美術学校を第1回に卒業。明治27年同校助教授に就任。31年日本美術院創立に参加、正員となる。36年イギリスに留学、39年美術院の茨城県五浦(いづら)への移転に従う。40年、第1回分展審査院を務め、「木の間の秋」を発表。大正3年(1914)日本美術院を再興。6年帝院技芸員。8年帝国美術院会員に推されたが辞し、在野精神を貫いた。作品に「白狐」(大正3年)「弱法師(よぼうし)」(大正4年)など。
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雨のようなシミがあったようですが、染み抜きして改装しているようです。 真贋・・・?? じっくり調べることとして、今日はそういう野暮は話はなし・・。