Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

死んだマンと近代文明

2005-08-14 | 文学・思想
昨日、20世紀ドイツの作家トーマス・マン没後50周年式典が、連邦大統領らを迎えてスター文学評論家マルセ・ライヒ・ライニツキ教授の講演を中心にリューベックの教会からTV生放送された。

ゲーテの死後五十年後の無関心や評価と現在のマンの評価を較べると文句は言えないが、ライヒ・ライニツキ教授がマンを 発 掘 する1970年までの現状と1980年代の進展を物語る。ヴィスコンティーの映画化などが象徴している事象である。それら文学作品は、音楽が演奏されて初めて意味を持つのと同じように、読まれて、演じられてこそ初めて価値を持つのであると言う。青年マン自身の出世への野心を交えて語られる。そして現在のドイツ語圏の大学での独文学教育では、昔とは状況が逆転して他の作家カフカやヘッセ、ムジールなどとは大きく差を空け、マンに関する圧倒的に多い授業時限数が示される。しかし、半面研究自体が殆んどされていなくて、作家の同性愛を分析する人間が「ヴェニスに死す」すら十分に読んですらおらず、重要な引用も出来ずに多くを見逃していると手厳しい。氏は、文章中の性的な意味合いも初めて日記を以って理解出来るので、公開された全日記を含めた研究はこれから始まるのだと言う。80年代に氏が、マンの小説を娯楽に出来る文学として紹介した時の否定的な大反響も述懐される。こうして聞くと、どうして教養と教育への問いが伏流のように隠されているのが分かる。

続く世代の反発やギュンター・グラス世代がこの作家を無視した期間を認めているのも興味深かったが、やはりここはどうしても同世代の音楽家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと比較してみたい。

前者は、大統領が挨拶で示したようにドイツをドイツ語圏越えてドイツ文学を世界文学としたが、二度と祖国へ帰りそこで落ち着くことなくスイスで生涯を終えた。後者は、ドイツ文化の代表を自認してナチスの祖国に居座り、戦後アメリカへの進出を企て前者らに妨害された。前者の日記に相当するのが、これら芸術家の虚像化を許さないという意味において、後者の作曲かもしれない。そして、前者の小説も後者の残された録音も圧倒的な世界市場の支持を得ているが、十分にその芸術が理解出来るとは言い難い。またその現象は、何故かゲーテの文学への理解やベートーヴェンの音楽への理解と相似をなしている。

それらは、一口に言うと教養という名の娯楽であるかも知れないし、教養という名の教育であるかも知れない。たとえば歴代の連邦首相どころか大統領で、どれ程に多くの人物が今回の挨拶で強調されたヒューマニティーをマンの作品から読み取る事が出来たかと問われるのである。そしてここにドイツ文化ならず近代文明への懐疑の源が見付かるかもしれない。これが、ライヒ・ライニツキ教授が言う教育は十分であるが研究はこれからであり、非常に逆説的だが娯楽に出来る文学作品である所以なのだろう。



参照:
トンカツの色の明暗 [文化一般] / 2005-07-11
QOLとしての水道水 [アウトドーア・環境] / 2005-07-29
コメント (8)
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