「これを壊しちゃいけないぞ。これがこわされるようなら、世界はもうおしまいだ。そうならないために、僕はどんなひどいことでもするだろう」
フランクフルト市立歌劇場で三島由紀夫の「午後の曳航」を素材とした、ゲッツ・フリードリッヒの演出で1990年にベルリン初演された、作曲家ヘンツェのオペラ「裏切られた海」のプリミエーを2002年3月9日に観た。
舞台台本の定まりとして、回想シーンは先に出て、時間の流れに沿うように原作の前後の入れ替えをしてある。オペラ台本は、切りつめて暗喩によって根幹構造に迫ろうとしている。
舞台は、近年の常套であるスクリーンを使い、海の波と航行する船首吃水や夕焼けのカモメ、さらに主人公の十三歳の少年・登が母親房子の寝室の壁の穴を覗く眼が、映像を使って表現された。舞台で印象に残ったのは、登が閉じ込められた鍵を掛けた部屋を、紗のこちら側と向こう側で空間を効果的に分けた紗の正方形の巨大な引き戸である。さらに海の映像に向かってハーフパイプ型の塀にすることで歪んだ空間となった。しかし実際は抽象的な舞台ではなく、船の内部や中学校風の建物を鉄筋やコンクリートの質感の構造物として、物質的で冷たい近代社会の感覚に訴えた。
音楽は繊細かつ雄弁、感性豊かで壮大な心象を描く。冒頭から反行系のような音列を使い、物語が発展していくのではなく、本来あるべきところに収束していくことを予感させる。登場人物である房子と、その愛人で二等航海士の竜二を一定の枠内で描き分ける統一化の構造と、海の波を七種類も書き分けた差異の変化を技術的卓越が楽しませる。
元来三島の小説では、狂人が登場するものは皆無であり、そのような心理描写はもっとも縁遠いもので、現代人のそれであることを思いおこさせる。1926年生まれのハンツ・ヴェルナー・ヘンツェ(三島の一つ下)の書法は、その初演年からすると古色蒼然としているが、この熟した自由な筆は一筋縄ではいかない現代を保守的な舞台芸術で表現することに適している。
リズムは少年の動悸のように細かに刻まれる小さな鼓動からクライマックスまでの推移に、打楽器の繊細な表現は、一幕の夏から休憩を挟んでの二幕の冬までを息付かさない。音楽が大きく叫ぼうとするときは、決して爆発・運命的な出来事が起こるのではない。少年たちの世界も大人の社会と同等以上な価値を持って、壮大な心象風景画が表現される。それは、今日も現実のどこにでもあるような風景で、そこに内蔵する本質的なものに、1970年代の赤軍派を思い起すのか、モスリムの聖戦へ向う若者を想起するかは人其々だろう。
演出で気になったのは幕切れの台本である。結婚を決め陸に上がる船乗りの竜二が登らの少年グループに桟橋に呼び出され殺害されるシーンを、一幕の猫を叩き付けての殺害シーンと対応させたのは良いが、最後に電気鋸を背後から首に叩き付けようとする終止にしたのは、三島の自殺ならびにそのシーンを - コッポラが映画「三島」で同じ事をやった様に - 「避けて通れない宿命」の様に感じさせる。
こうなると、三島が三十八歳でこの原作「午後の曳航」を書き、数年後には死んでいったのは必然におもえてくる。「パパ、人生の目的っていったいあるんですか」と聞く登の少年グループの首領の問いに、大江健三郎氏が「僕は三島さんのようには自殺しません」とちぐはぐに答えているようだ。
新聞の新作オペラ批評 [ 文化一般 ] / 2005-08-28
から続く
暁に燃えて、荒れ狂う[歴史・時事] / 2005-08-28
へと続く
フランクフルト市立歌劇場で三島由紀夫の「午後の曳航」を素材とした、ゲッツ・フリードリッヒの演出で1990年にベルリン初演された、作曲家ヘンツェのオペラ「裏切られた海」のプリミエーを2002年3月9日に観た。
舞台台本の定まりとして、回想シーンは先に出て、時間の流れに沿うように原作の前後の入れ替えをしてある。オペラ台本は、切りつめて暗喩によって根幹構造に迫ろうとしている。
舞台は、近年の常套であるスクリーンを使い、海の波と航行する船首吃水や夕焼けのカモメ、さらに主人公の十三歳の少年・登が母親房子の寝室の壁の穴を覗く眼が、映像を使って表現された。舞台で印象に残ったのは、登が閉じ込められた鍵を掛けた部屋を、紗のこちら側と向こう側で空間を効果的に分けた紗の正方形の巨大な引き戸である。さらに海の映像に向かってハーフパイプ型の塀にすることで歪んだ空間となった。しかし実際は抽象的な舞台ではなく、船の内部や中学校風の建物を鉄筋やコンクリートの質感の構造物として、物質的で冷たい近代社会の感覚に訴えた。
音楽は繊細かつ雄弁、感性豊かで壮大な心象を描く。冒頭から反行系のような音列を使い、物語が発展していくのではなく、本来あるべきところに収束していくことを予感させる。登場人物である房子と、その愛人で二等航海士の竜二を一定の枠内で描き分ける統一化の構造と、海の波を七種類も書き分けた差異の変化を技術的卓越が楽しませる。
元来三島の小説では、狂人が登場するものは皆無であり、そのような心理描写はもっとも縁遠いもので、現代人のそれであることを思いおこさせる。1926年生まれのハンツ・ヴェルナー・ヘンツェ(三島の一つ下)の書法は、その初演年からすると古色蒼然としているが、この熟した自由な筆は一筋縄ではいかない現代を保守的な舞台芸術で表現することに適している。
リズムは少年の動悸のように細かに刻まれる小さな鼓動からクライマックスまでの推移に、打楽器の繊細な表現は、一幕の夏から休憩を挟んでの二幕の冬までを息付かさない。音楽が大きく叫ぼうとするときは、決して爆発・運命的な出来事が起こるのではない。少年たちの世界も大人の社会と同等以上な価値を持って、壮大な心象風景画が表現される。それは、今日も現実のどこにでもあるような風景で、そこに内蔵する本質的なものに、1970年代の赤軍派を思い起すのか、モスリムの聖戦へ向う若者を想起するかは人其々だろう。
演出で気になったのは幕切れの台本である。結婚を決め陸に上がる船乗りの竜二が登らの少年グループに桟橋に呼び出され殺害されるシーンを、一幕の猫を叩き付けての殺害シーンと対応させたのは良いが、最後に電気鋸を背後から首に叩き付けようとする終止にしたのは、三島の自殺ならびにそのシーンを - コッポラが映画「三島」で同じ事をやった様に - 「避けて通れない宿命」の様に感じさせる。
こうなると、三島が三十八歳でこの原作「午後の曳航」を書き、数年後には死んでいったのは必然におもえてくる。「パパ、人生の目的っていったいあるんですか」と聞く登の少年グループの首領の問いに、大江健三郎氏が「僕は三島さんのようには自殺しません」とちぐはぐに答えているようだ。
新聞の新作オペラ批評 [ 文化一般 ] / 2005-08-28
から続く
暁に燃えて、荒れ狂う[歴史・時事] / 2005-08-28
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