最近著作権関連の報道が多いだけでなく、BLOGにおいてもその法関連について様々に取り扱われて感心の高まりを示している。それでも一般市民には、この現象が企業の営利と市民の娯楽との相克のように映っている。
理由は、著作権隣接権もしくはコピーライトなどの用語が混乱して使われている事にもある。これは何もマスコミやその用語の定義が悪いのではなくて、もともとその権利の経済構造が部外者には分からないほど入り組んでいるからである。
先ほどのカナダのIPodの権料徴収裁判では、カナダの著作権管理団体CBCがハードウェアー毎に著作権料を徴収することを認めなかった。また二次的な徴収の権利とされる版権の管理団体やレコード会社団体IFPIなどは、これに対して「何ら著作権関連の料金を徴収しないという事は、その他あらゆるコピーへの違法性を明確に定義付けた」として歓迎している。
ここで著作権よりも版権の方が、既にグーテンベルクの印刷技術普及の過程で、重要であった事を思い出さなければならない。これからも知れるように、出版やメディア業にとっては版権の行使が仕事の根幹となる権益であり、著作権者は其れを通して初めて謝礼を得る事が出来た。
しかし、メディア業界は法廷戦略として、基本的権利である著作権行使代行者をその管理団体の背後で標榜しているようだ。その権利主張を通して、本来の自らの権益である版権を保護するように見える。これが一般の理解を難しくして、正しい認識や世論を築くのを妨げている。
何故に社会共有であるべきテクノロジーと言う文明の恩恵に与ってはならないのだろう。それどころか、そういう技術競争を支える為に引いては資本主義経済を底支えするために、財布を叩いてハードを購入しているのではないかと誰もが考える。知的財産権の為に特許料に相当するものをハード製品価格に上乗せすることには、何一つ関心を示さない消費者も、購入したハ-ドで、それも個人での使用を目的としたコピーまでが制限されるとなるとなかなか納得出来ない。
其れに対応するソフトである知的財産の著作権が、ここで問題となっているのである。しかしそのソフトが、デジタル技術と言う効率の良い経済を目指す大量複製技術に適していてしかも媒体となるハードのメディアに依らず存在する事が出来るとなると、元来の知的財産の対象となる「創造の影」が薄くなる感じを持つのではなかろうか。版画の版数を思い浮かべるが良い。
その経済効率とその複製権・版権の保護のディレンマに陥った版元には、多くの人はあまり同情的ではない。多くの市民は、初めから自らが王侯貴族のように芸術家を侍らす夢などは見ていない。只その辺で遣っている大道芸人の様を人垣の隙間から覘ければそれで十分なのだ。満足すれば幾らばかりかの金を投げ入れよう。このような供給を一先ずエンターテイメントとしておく。
このエンターティメントこそが商業主義と切っても切れない代物であることを確認した上で、著作権隣接権と版権の関係をみていかなければならない。それは、知れば知るほど著作権の基本となる知的財産権と商業的な想像力の複雑な絡み合いに益々混乱するかもしれない。しかしこの迷路を通らずしては、著作権の本来の姿を見出す事は無いと思われる。(続く)
参照:影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23
理由は、著作権隣接権もしくはコピーライトなどの用語が混乱して使われている事にもある。これは何もマスコミやその用語の定義が悪いのではなくて、もともとその権利の経済構造が部外者には分からないほど入り組んでいるからである。
先ほどのカナダのIPodの権料徴収裁判では、カナダの著作権管理団体CBCがハードウェアー毎に著作権料を徴収することを認めなかった。また二次的な徴収の権利とされる版権の管理団体やレコード会社団体IFPIなどは、これに対して「何ら著作権関連の料金を徴収しないという事は、その他あらゆるコピーへの違法性を明確に定義付けた」として歓迎している。
ここで著作権よりも版権の方が、既にグーテンベルクの印刷技術普及の過程で、重要であった事を思い出さなければならない。これからも知れるように、出版やメディア業にとっては版権の行使が仕事の根幹となる権益であり、著作権者は其れを通して初めて謝礼を得る事が出来た。
しかし、メディア業界は法廷戦略として、基本的権利である著作権行使代行者をその管理団体の背後で標榜しているようだ。その権利主張を通して、本来の自らの権益である版権を保護するように見える。これが一般の理解を難しくして、正しい認識や世論を築くのを妨げている。
何故に社会共有であるべきテクノロジーと言う文明の恩恵に与ってはならないのだろう。それどころか、そういう技術競争を支える為に引いては資本主義経済を底支えするために、財布を叩いてハードを購入しているのではないかと誰もが考える。知的財産権の為に特許料に相当するものをハード製品価格に上乗せすることには、何一つ関心を示さない消費者も、購入したハ-ドで、それも個人での使用を目的としたコピーまでが制限されるとなるとなかなか納得出来ない。
其れに対応するソフトである知的財産の著作権が、ここで問題となっているのである。しかしそのソフトが、デジタル技術と言う効率の良い経済を目指す大量複製技術に適していてしかも媒体となるハードのメディアに依らず存在する事が出来るとなると、元来の知的財産の対象となる「創造の影」が薄くなる感じを持つのではなかろうか。版画の版数を思い浮かべるが良い。
その経済効率とその複製権・版権の保護のディレンマに陥った版元には、多くの人はあまり同情的ではない。多くの市民は、初めから自らが王侯貴族のように芸術家を侍らす夢などは見ていない。只その辺で遣っている大道芸人の様を人垣の隙間から覘ければそれで十分なのだ。満足すれば幾らばかりかの金を投げ入れよう。このような供給を一先ずエンターテイメントとしておく。
このエンターティメントこそが商業主義と切っても切れない代物であることを確認した上で、著作権隣接権と版権の関係をみていかなければならない。それは、知れば知るほど著作権の基本となる知的財産権と商業的な想像力の複雑な絡み合いに益々混乱するかもしれない。しかしこの迷路を通らずしては、著作権の本来の姿を見出す事は無いと思われる。(続く)
参照:影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23