昨日の夕刻、ニュースをリーダーで見ていると登山家メスナーの弟ギュンター・メスナーの遺体が25年ぶりに見付かったというのが出ていた。第二報も読むと、今月になって8000メートル峰ナンガパルバットで登山者によって見付かっていたものをメスナー氏が現地で確認したらしい。何れにせよ所持品で確認したというから、凍っているとはいえ以前エヴェレストで見付かったマロリーの死体のように原形を留めていないのだろう。
1970年のナンガパルバット遠征隊の後続ザイルパーティーがメスナー兄弟を救助せずにすれ違いに頂上へ向った事の真相が、70年代の法廷闘争に続いて、三年前ほど前に再び争われた。何故ならば、新しく下肢の人骨が一帯から見付かったからである。それをインスブルックの大学でDNA鑑定した結果、弟の物である高い可能性を示したという。双方とも其々の書籍によって、お互いに非難し合った。このミステリーを詳しく知るには、メスナー氏の本かそれともすれ違いに頂上へ向った遠征隊仲間の本を読まなければいけない。
つまり、今回この骸が稜線から脱出の道を求めて一般ルートへと「強引に下った途上、雪崩に巻き込まれたとする弟」の物であるとすると、それを根拠としてメスナー氏は、「メスナーは、野心に逸って弟を置き去りにした」とする上の後続パーティー仲間二人を名誉毀損で訴えるとしている。
当時の状況はメスナー氏の本に、高所での極限状態から最終的に幻視・幻聴の世界へと這入って行くのが良く描かれている。メスナー氏は、1978年には、法廷闘争中であるにも臆せずナンガパルバットでの何回かの試みの後、麓から頂上までを一人で一気に登って降りてくるアルプス式の登山を成功させている。その後2000年には、56歳の欧州議員の登山家は、久ぶりに8000メートル峰へと戻る。ストラスブールの暗い議会場でも夢見ていたらしい。
そこで彼が見たのは、20年前に死に物狂いで谷へと降りて来た別世界から現れたような朽ち果てた登山家が見た荒涼とした深い谷とそこで暮らす素朴な牧童の村ではなくて、トレッキングや登山者の大時代的なベースキャンプの喧騒であったようだ。50年前の大登山家ヘルマン・ブールの偉業や20年前の悲劇の残像を携えて、頂上稜線で雪の大いなる抵抗に遭遇して退却する。この壮年登山チームは、携帯電話などを持参しなかったという。
110年前の最初の試みであった、マッターホルンのツムット稜の初登攀者マメリーが最初の行方不明になってからここでの犠牲者は絶えない。1934年の遠征隊の行方不明者ヴィリー・メルクルは、1938年の遠征隊によって死体として発見されナチの宣伝に使われる。この間二桁の死者を出してドイツ宿命の山と呼ばれる。1939年にはハインリッヒ・ハラーが参加して、帰路戦争勃発で捕虜になり、その後ダライラマと親交を結ぶのはハリウッド映画で御馴染である。戦後メルクルの弟ヘアリッコッファー率いる隊で、ヘルマン・ブールが指示を無視しての単独初登頂に41時間の死闘を繰り広げる。このヘアリッコッファーは、再びメスナー兄弟が参加する新ルート開拓遠征の時の登山隊長となり、上述の事故後1970年代に管理責任を裁判で訴えられる。
第三報:メスナー氏の代理人は、頭蓋骨は未発見であるとした。更にこの問題の人骨は、4600M付近のディアミールサイドのベースキャンプで見付かったとされている。7000M付近からの雪崩で流されたとしている。一方、争っているハンス・ザーラー氏は、遠征先のボルヴィアから代理人を通じて「馬鹿馬鹿しい証明」と言う。何故ならば、このサイドで若し遺体が見付かったとしても「功名心奔れて頂上へと向ったラインホルトに一人残されたギュンターが下降途中に尾根の反対方向に落ちる可能性はある」からだとしている。
参照:涅槃への道 [ 文学・思想 ] / 2004-11-23
1970年のナンガパルバット遠征隊の後続ザイルパーティーがメスナー兄弟を救助せずにすれ違いに頂上へ向った事の真相が、70年代の法廷闘争に続いて、三年前ほど前に再び争われた。何故ならば、新しく下肢の人骨が一帯から見付かったからである。それをインスブルックの大学でDNA鑑定した結果、弟の物である高い可能性を示したという。双方とも其々の書籍によって、お互いに非難し合った。このミステリーを詳しく知るには、メスナー氏の本かそれともすれ違いに頂上へ向った遠征隊仲間の本を読まなければいけない。
つまり、今回この骸が稜線から脱出の道を求めて一般ルートへと「強引に下った途上、雪崩に巻き込まれたとする弟」の物であるとすると、それを根拠としてメスナー氏は、「メスナーは、野心に逸って弟を置き去りにした」とする上の後続パーティー仲間二人を名誉毀損で訴えるとしている。
当時の状況はメスナー氏の本に、高所での極限状態から最終的に幻視・幻聴の世界へと這入って行くのが良く描かれている。メスナー氏は、1978年には、法廷闘争中であるにも臆せずナンガパルバットでの何回かの試みの後、麓から頂上までを一人で一気に登って降りてくるアルプス式の登山を成功させている。その後2000年には、56歳の欧州議員の登山家は、久ぶりに8000メートル峰へと戻る。ストラスブールの暗い議会場でも夢見ていたらしい。
そこで彼が見たのは、20年前に死に物狂いで谷へと降りて来た別世界から現れたような朽ち果てた登山家が見た荒涼とした深い谷とそこで暮らす素朴な牧童の村ではなくて、トレッキングや登山者の大時代的なベースキャンプの喧騒であったようだ。50年前の大登山家ヘルマン・ブールの偉業や20年前の悲劇の残像を携えて、頂上稜線で雪の大いなる抵抗に遭遇して退却する。この壮年登山チームは、携帯電話などを持参しなかったという。
110年前の最初の試みであった、マッターホルンのツムット稜の初登攀者マメリーが最初の行方不明になってからここでの犠牲者は絶えない。1934年の遠征隊の行方不明者ヴィリー・メルクルは、1938年の遠征隊によって死体として発見されナチの宣伝に使われる。この間二桁の死者を出してドイツ宿命の山と呼ばれる。1939年にはハインリッヒ・ハラーが参加して、帰路戦争勃発で捕虜になり、その後ダライラマと親交を結ぶのはハリウッド映画で御馴染である。戦後メルクルの弟ヘアリッコッファー率いる隊で、ヘルマン・ブールが指示を無視しての単独初登頂に41時間の死闘を繰り広げる。このヘアリッコッファーは、再びメスナー兄弟が参加する新ルート開拓遠征の時の登山隊長となり、上述の事故後1970年代に管理責任を裁判で訴えられる。
第三報:メスナー氏の代理人は、頭蓋骨は未発見であるとした。更にこの問題の人骨は、4600M付近のディアミールサイドのベースキャンプで見付かったとされている。7000M付近からの雪崩で流されたとしている。一方、争っているハンス・ザーラー氏は、遠征先のボルヴィアから代理人を通じて「馬鹿馬鹿しい証明」と言う。何故ならば、このサイドで若し遺体が見付かったとしても「功名心奔れて頂上へと向ったラインホルトに一人残されたギュンターが下降途中に尾根の反対方向に落ちる可能性はある」からだとしている。
参照:涅槃への道 [ 文学・思想 ] / 2004-11-23