ソフィア大学の教育学教授ルーメル教授は、唯一人健在なドイツ人の広島被爆生存者と言う。当時広島郊外の長束にあったイエズス会の修道所にいて人類最初の原子爆弾に遭遇する。誰が語ろうがその惨状は変わらない。しかし宣教師として救助活動に当たるなどの積極的な行動やその立場が十分伺われる。特にベルリン陥落の1945年5月8日以降は、憲兵隊によって一箇所に収監されるところを逃れるなどの状況を初めて知る。
投下後、修道所の近くの朝鮮人バラックでは80人中20人しか町の道路工事現場から帰還しなかった事、また街中の教会の道の住民の70%が死亡、爆心地により近い次の道で90%が死亡、プロテスタントの女学校600人は工場で働いていて30%から40%の死亡だけに免れ、女学校の300人は校庭にいて殆んどが死亡などと、単純な足し算で無い集計に余計に其々の事情が浮き彫りになる。
8月8日には一大火葬場となった市内には誰一人として入れなかったと言う。死体の焼却には一万人の兵員が動員された。葬儀場も足りない郊外の村では大人の死体に5束の藁と15本のマッチが渡され、子供の死体にはそれぞれ3束と9本が宛がわれ、其れでは足りないので燃料も配られた。
神父は直後に小さな村の村長を訪れ、同じキリスト教国米国の暴挙を詫びた。すると村長は「其れを持っていたら同じ事をしたでしょう。」と答えた。
日本帝国陸軍からの要請で、キール港から処女航海のユーボートで運ばれたウランは、ベルリン陥落を以ってシンガポール沖で降伏したドイツ海軍クルーと共にサンフランシスコに運ばれた。そこでこれは、アインシュタインなどが推奨したマンハッタン計画に使われ、ドイツには落とされずに広島に落とされたという。その事があってかどうかは分からないが、広島・長崎の投下直後に敗戦のドイツの町で、大人に交じって抗議デモ行進をしたというペンキ職人を知っている。
何れにせよポツダム宣言の前後には、在イタリア日本帝国在外公館筋を通して核爆弾使用による外交的圧力は掛かっていたという事から、未曾有の両惨事は政治判断で避けられたのは明らからしい。その一方、全面戦争ではこうした壊滅的な終結を何時も覚悟しなければいけないと、この教訓は語る。広島をアウシュヴィッツと相似と捕らえるのは、その観点からは正しい。
ネットサーチすると、米国大統領の広島・長崎訪問への希求を幾つか見つけた。そこへ至る論調は、原爆投下は公式釈明のような早期の戦争終結ではなくて対ソヴィエト戦略であったのは自明として、それどころか現在も正常な歴史認識さえ出来ない米国の御家事情が分析されていた。米国社会は、パールハーバーやグランド・ゼロのルサンチマンでしか世論を統一出来ないのだろうか。
通常は文化産業を批判する一節として引用される、社会学者アドルノの言葉がそこにも添えられていた。
「認識が生む苦しみの認識を禁ずる事も統治機構の一つである。」、更に続けて「真っ直ぐと伸びる道は、人生の喜びの福音から、 遥 か 遠 く のポーランドの収容所の人間場へと続く。こうして、絶叫などは聞いていないと自国の一人一人のアーリア人に思い込ませる事が出来る。」(Theodor W. Adorno: „MINIMA MORALIA“ 1951)
最後に、ノーベル文学賞のエリアス・カネッティの一節、「破壊の為に、炎ほど有効な手段は他に無い。…取り返しつかなく全てを焼き尽くす。元から何も無かったかのように、何も残らない。その火を放つ群集は、無敵である。…完璧な破壊の後、その炎は群集のように消え去るに違いない。」を記す。
参照:
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
素裸が雄弁に語らないもの [ 文化一般 ] / 2005-04-21
投下後、修道所の近くの朝鮮人バラックでは80人中20人しか町の道路工事現場から帰還しなかった事、また街中の教会の道の住民の70%が死亡、爆心地により近い次の道で90%が死亡、プロテスタントの女学校600人は工場で働いていて30%から40%の死亡だけに免れ、女学校の300人は校庭にいて殆んどが死亡などと、単純な足し算で無い集計に余計に其々の事情が浮き彫りになる。
8月8日には一大火葬場となった市内には誰一人として入れなかったと言う。死体の焼却には一万人の兵員が動員された。葬儀場も足りない郊外の村では大人の死体に5束の藁と15本のマッチが渡され、子供の死体にはそれぞれ3束と9本が宛がわれ、其れでは足りないので燃料も配られた。
神父は直後に小さな村の村長を訪れ、同じキリスト教国米国の暴挙を詫びた。すると村長は「其れを持っていたら同じ事をしたでしょう。」と答えた。
日本帝国陸軍からの要請で、キール港から処女航海のユーボートで運ばれたウランは、ベルリン陥落を以ってシンガポール沖で降伏したドイツ海軍クルーと共にサンフランシスコに運ばれた。そこでこれは、アインシュタインなどが推奨したマンハッタン計画に使われ、ドイツには落とされずに広島に落とされたという。その事があってかどうかは分からないが、広島・長崎の投下直後に敗戦のドイツの町で、大人に交じって抗議デモ行進をしたというペンキ職人を知っている。
何れにせよポツダム宣言の前後には、在イタリア日本帝国在外公館筋を通して核爆弾使用による外交的圧力は掛かっていたという事から、未曾有の両惨事は政治判断で避けられたのは明らからしい。その一方、全面戦争ではこうした壊滅的な終結を何時も覚悟しなければいけないと、この教訓は語る。広島をアウシュヴィッツと相似と捕らえるのは、その観点からは正しい。
ネットサーチすると、米国大統領の広島・長崎訪問への希求を幾つか見つけた。そこへ至る論調は、原爆投下は公式釈明のような早期の戦争終結ではなくて対ソヴィエト戦略であったのは自明として、それどころか現在も正常な歴史認識さえ出来ない米国の御家事情が分析されていた。米国社会は、パールハーバーやグランド・ゼロのルサンチマンでしか世論を統一出来ないのだろうか。
通常は文化産業を批判する一節として引用される、社会学者アドルノの言葉がそこにも添えられていた。
「認識が生む苦しみの認識を禁ずる事も統治機構の一つである。」、更に続けて「真っ直ぐと伸びる道は、人生の喜びの福音から、 遥 か 遠 く のポーランドの収容所の人間場へと続く。こうして、絶叫などは聞いていないと自国の一人一人のアーリア人に思い込ませる事が出来る。」(Theodor W. Adorno: „MINIMA MORALIA“ 1951)
最後に、ノーベル文学賞のエリアス・カネッティの一節、「破壊の為に、炎ほど有効な手段は他に無い。…取り返しつかなく全てを焼き尽くす。元から何も無かったかのように、何も残らない。その火を放つ群集は、無敵である。…完璧な破壊の後、その炎は群集のように消え去るに違いない。」を記す。
参照:
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
素裸が雄弁に語らないもの [ 文化一般 ] / 2005-04-21