Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ゆく河の流れは絶えずして

2005-08-01 | 
河の流れが堰止まって出来た小さな湖で泳ぐのはあまり面白くない。途轍もなく大きい湖なら底知れぬ謎が深く横たわっていたり、氷河湖には神秘があったりして良い。そのように大海の塩気や河の流れに転生を感じたり出来ないと、プールとあまり変わらない。それでも自然の湖は、雨が降ったり、底から水が沸いていたりして、水は時間をかけて徐々に入れ替わっているのだろう。

この入れ替わり方と言うか変遷のあり様が、これが結構哲学的なのである。其れが液体であろうと気体であろうと、エーテルであろうと変わらない。これは、波のような何かを伝えていく媒質でもあり、そのものの変容でもあり得る。そして媒体自体がn次元のなかで変換するとなると実態は定まらない。

たまたま其れが重力にしたがって上から下へと流れるように、大気も宇宙も同じような運動をする。更にこれを任意の定まらない形で自由に捉えて行くと、芸術とは、思想とは、科学とはなんぞやと言う大命題に行き当たる。

劇場空間などは、当にこれの典型で舞台の仕切りと観客席が区切られる事によって初めて成立する。嘗て、ルチアーノ・ベリオの最後のザルツブルクの委嘱舞台作品を、フェルゼンライトシューレの天井裏から耳を澄ました事があった。こちらの話し声が舞台に響いたかどうかは分からないが、作品自体も、その公演中に開閉する屋根のようにまたは太洋のように、半分開かれた世界であったのだろう。デスクを離れて、バルコンでこちらを見ながら、仕事の手を休めていたモルティエ博士監督時代のディレクター・ランデスマン博士の姿が思い出される。

先日、ライン河中流の町ボッパートの教会で開かれたアカペラ・コンサートでは、SWRヴォカールアンサンブルによりジェルジ・クルタークの1980年代の作品が、メンデルスゾーンのモテット等と共に歌われた。後者のルターのコラール等を真剣に生かした圧倒的な確信とも、もう一曲のダルラピッコラの晩年1970年の作品の理想主義と較べても、前者の作品は教会の四角い会堂の形に上手く納まった。

後者のホモフォニーとポリフォニーの融合でバッハへと繋がったり、対位法のベルカント12音手法でウェーべルンへと繋がったりする大きなアーチは、前者のノーノの晩年の成功作「ディオティマに」に触発されてその先人に捧げられた曲等においては、恰も虹のようにその足元は消えて無くなる。それは、メビウスの輪の様でもあり、SFの異次元への出入り口とも表現出来るかもしれない。

そこで使われる特殊な発声などは、決して奇を衒ったり、劇的効果を上げるでもなく、ましてや良く言われるような表現力を示すのでもない。其れは歌詞があろうがなかろうが、微風の囁きであったり、声帯を震わさない気管から抜ける空気の音であったり、川岸の漣であったりする。それは、この作曲家が後進の舞台芸術家の指導をする時のように、決して構造的な緊張感を孕んだりせずに次元の展開の中で存在している事が望ましいのだろう。

到底写真だけでは、ローマ人の砦のあるボッパートからのライン河岸の大気を写し切れないので、こうしてのらりくらりと形を変えながら過去へと未来へと行き来する不定の永久機関を描いてみた。

この声楽シリーズは、以前あったライン河中流でのSWRの催し物が「ライン・ヴォカール」として再編成されて、今年から始まった。その中心にある合唱団を援護する目的も有ったのだろうか。編成側の希望叶わずこの世界屈指のアンサンブルは解散となるが、この催し物の今後の発展を願うとともに、消え去るものもぺルペトウム・モビールの如く一度伏流となっても、再び迸って欲しいと思う。



参照:
綾織の言葉の響き [ 音 ] / 2005-04-12
踏み付けられた巨人 [歴史・時事] / 2005-07-08
お宝は流れ流れて [ 文学・思想 ] / 2005-03-15
ドイツ鯉に説教すると [ 文学・思想 ] / 2005-03-14
簡潔さと的確さ - H・ハイネ [ 文学・思想 ] / 2004-11-15
コメント (6)
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