Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

吐き気を催させる教養と常識

2005-08-18 | 文化一般
他人の家庭の内情を見るほど鬱陶しい話も無い、またその好奇の目線ほどムカムカさせるものも無い。数年前に好評の内に終えた独第一放送のドラマ「マン家の人々」の余波を受けてか、クリスチャン・ブーデンブロックこと通称フリーデル伯父さんまでが研究対象となっているとなると、尚更鬱陶しい。「何もかも吐き気がする様に日記にも吐き気がする。」と、その日記の内容が最も話題となっている作家トーマス・マン本人のように。

このような「 文 学 研究」が進むと、どうしても第二文学と云う何処か懐かしい言葉が聞こえるようになる。これが、また研究の質を阻害するという。娯楽音楽(U- MUSIK)と第二文学と云うような古くて新しい言葉が語る憂慮を、研究者の口から聞くとなると、余計頭が痛い。なんでもない、我々はその憂慮を研究して欲しいのである。

ドイツで最も高名な音楽評論家ヨハヒム・カイザー教授の著書「私の大切なもの」に、マンの日記が触れられている。そこで特に面白いと思ったのが、マンの日記に書き込まれていた音楽愛好を指してか、マンの音楽への造詣をアマチュアとして定義している。そして、これが小説「ファウスト博士」では馬脚を露しているが、若しこれがアドルノの様に教育を受けたプロフェッショナルだとすれば、遥かに危険な状況に陥っていただろうと推測する。

マン自身が死後の日記の公表に期限をつけたことと並んで、ドイツ文学のガリオン像になる事を避けようとした遺志は、作曲家ヒンデミットなどの意志にも通じる。

我々が様々な経験から知っているのは、同時代の像から次世代は衣を剥いで、そしてその像は叩かれ撫でられ傷つきながらも我々の手元に引き摺り下ろされる。この過程を、時間を置いた客観化と云うことが出来る。そして歴史の中で、この手垢で汚れ、または剥げた像を修復したり掃除しながら扱う事になる。

リヒャルト・ヴァーグナーの作品は、妻コジマや本人が何を書こうがアンチセミティズムを代弁していないのと同様に、トーマス・マンの作品は、本人の言葉を借りれば「私の書物が在る所にこそに私が居るのです。それらは、なんと言っても蒸留された私の最高の物です。」となる。

それで現状のような作品を取り巻く全てが、認知される過程は-人類の「真実(ステレオタイプの常識・教養)」となる過程は-、本人によって日記の封印の束の上に次のように書き指示されている。:

<Daily Notes from 33-51. Without literary value, but not to open by anybody before 20 Years after my death.>

ここにも、誤訳されたファストフード風村上春樹文学をエロ文学として寵愛し、夏休みをザルツブルクの古城で愉しむマルセ・ライヒ・ライニツキ氏が娯楽小説として評した「トーマス・マン文学」の真髄を再確認出来るのでは無いだろうか。



参照:
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
否定の中で-モーゼとアロン(1) [文学・思想]/2005-05-02
マイン河畔の知識人の20世紀 [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
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