Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽的なライフスタイル

2021-04-04 | 
聖金曜日は、夕刻にバーデンバーデンからの中継を少し観た。ベルリナーフィルハーモニカーがハイドンの「最後の七つの言葉」を祝祭劇場で演奏していた。平素から一緒に弾いている四人組四重奏なのかもしれない。結構年配の顔ぶれで、思い当たるのはチェロを弾いていた人で、それもおでこが先週亡くなったボルヴィルツキーというカラヤン時代の奏者に似ているからで、どちらかというと街で見かけても気が付かない四人組だった。室内楽的というよりもいつもの楽団で演奏するような塩梅だった。

同時視聴者数は簡単に100人を超えていて、バーデンバーデンの常連さんの厚みを改めて感じた。これがバイロイトやザルツブルクの目指している大音楽祭に負けない基盤かも知れない。番組としてはナレーションや進行が洗練されていなくて、常連さんの支援に頼っているようなところがあるのがいけない。

さてお目当てのアクサンプロヴァンスからの「マタイ受難曲」は矢張り素晴らしかった。教会で上手に場所を取って録音録画をしていたが、先ず何よりも言葉が明瞭で、マイクロフォンだけでなくてアーティキュレーションが確りしているからだろう。先月バーデンバーデンで歌っていたフランクフルトのプレガルディエンも歌曲を歌ったその時よりも安定していて、指揮者の仕事ぶりが窺えた。

そのレチタティ―ヴォへの拘りは、先ほどのミュンヘンの「ばらの騎士」におけるパルランドへの拘りと同じく、嘗てこれ程音楽的にも内容的にも立派なエヴァンギリストを知らない。歌手も素晴らしいのだが、やはり指揮者を称えたい。

その指揮者ピションの音楽もその明晰さになによりもの長所がありながら、東独でも評価されているスズキのドグマティックなバッハでなくてまさしく我々のヒューマンで都会的なバッハ像がそこにある。なによりも我々のライフスタイルに身近な今日のバッハ像である。

2015年にフランクフルトで彼のアンサムブルピグマリオンを聴いたのは室内楽ホールだったようで、大ホールではカウフマンがパリでペトレンコ指揮でバッフスを歌ったあとドサマワリしていた。そこでの記録を読み直すとやはりアーティキュレーションが良かったようで、バッハの会ではコープマンやヘルヴェッヒの現代のバッハを代表する演奏家を招聘しているが、そこの一角に入ってきていて、バルタザーのそれよりも明晰だったかもしれない。指揮者ヘンゲルブロックは会が育てたようなものだったが、やはり音楽的に今回の様に優れた例は少なくて、ピションに関してはそのセンスの良さからお墨付きが与えられたようなものだった。

今回もドイツツアーが前後してあったようで、キャンセルと挨拶のヴィデオメッセージがメールでも送られて来ていた。本人が観てくださいと言うにふさわしい放送制作だった。
Dirigent Raphaël Pichon lädt ein: Die Matthäuspassion im Stream auf ARTE Concert am 2. April


我々のバッハの会においては厳選された演奏家が招聘されるのだが、中々このレベルに至る演奏団体はそれほどない。嘗てのコープマン指揮のアムステルダムの団体からヘルヴェッヘ指揮ゲントの団体を経て、漸く次の世代に引き渡された感が強い。

今回の制作ヴィデオは各々の団体の支援という事になっているが、バッハの会も幾らか出したのだろう。そして今のところアクサンプロヴァンスからの中継が圧倒的にバーデンバーデンのそれを上回っている。よく考えてみれば、私がバーデンバーデン祝祭劇場に取り分け支援をしていないのもこうした芸術性を問うているからだ。さて日曜日はベルリンで収録された中継が復活祭の演奏として流されるが、それで一発逆転して貰わないといけない。その為にバーデンバーデンにも寄付したようなものでである。



参照:
知的で刺激的なバロック音楽 2015-10-17 | 文化一般
数字に囚われるなんて 2021-02-20 | 雑感 
コメント
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