仕事が1件だったので、たまの休日をとらせてもらった。
台風の影響があるだろうから陣馬山はちょっと敬遠です。
帰宅してから聞いたが、小平畑は午後から大雨になったそうだ。
それで都内散策で、上野の東京美術館の浮世絵展でも見に行こう。
電車で行ったらもったいないので、新宿から走って行くことに。
10kmはあるんじゃないかと期待していました。
じゃーん
神田川を飯田橋の橋から見下ろしたら、左のほうから大きな暗渠が出てきています。
この暗渠は、何川になるんでしょう???
神田川を超えて小石川後楽園に向かった。
大通りを走るのは嫌なんで、裏通りで向かいます。
方角さえ合っていればOKです。
都会でも山でも砂漠地帯でもそれは一緒だ。
小石川後楽園は高校生の時にデートに使った1回だけです。
大学生の時は近くに通っていたが、見向きもしなかったので、来園は2回目か3回目かわからないけど、、、。
小石川後楽園を作った徳川一族です。
入口で外人さんとすれ違ったけど、中はガラガラです。
玉川上水の由来はよく知っているけど、神田上水はその前からあった。
江戸の街が100万都市になって神田上水だけじゃ足りなくなって、幕府は一大土木工事の玉川上水を企画したわけだ。
こんな小さな流れが、、、神田上水だもの、、、。
100万人には足りないでしょ!
玉川上水は、私が小学校の頃はものすごい水流だった。
幅で10mはなかったと思うけど、怒涛のような水流だった。
東京都民の水をいってに受け持っていたんだから、、、玉川上水が実際に使われているのを、この目で見たんです。
太宰治が武蔵野のあたりで玉川上水に入水自殺したって、いま見たら想像がつかないくらいの水量しかありません。
でも私の小さなころは、あんな水流に落ちたら命がいくつあっても足りないくらいだと思えるほどだった。
中国から帰化された方が石のアーチ橋を造らせた。
中国では川に石でアーチをかけていた。
1000年以上前からそんな技術があったんです。
日本はそのころは、天皇の土饅頭の墓(古墳)を作れるだけだった。
文化、文明、技術、は全て大陸から導入していた。
大きな池があります。
誰もいません、、、もったいない。
稲を作っていました。
ウエストにはお金とテッシュ、スイカ、ぐらいしか持参していません。
暑かったので飯田橋を過ぎたあたりでビッショリ汗をかいていました。
政権が長く続くと文化が育ちます。
政権は腐敗するが、町民文化、アートは熟すのです。
庭園には水が付きもの。
上野の不忍池の蓮も大きいけど、小石川後楽園の蓮も見事ですよー。
茶屋があってなにか頂こうと思ったが、、、パスした。
びいどろ茶屋と言うそうだ。
昔はお武家さんの庭園だったから、お屋敷のような塀です。
上野編につづく
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