母の遺品整理が続いていて、古そうな紙袋から時刻表が出てきた。
それも昭和23年の国鉄時代の時刻表だ。
戦後3年くらいだから、鉄道がようやく機能し始めたころ。
薄っぺらな小紙だった。
表紙が蒸気機関車(SL)なんですね。
日本交通公社ってなんだろ?
確かに電話や郵便や国有鉄道は公社でしょうが、日本交通公社は何をする会社?
そういえば母は時刻表を最近まで毎年買い替えていた。
鉄マニだったのか?
今でいうイヤーモデルの時刻表です。
裏表紙には「三菱銀行が千代田銀行になりました」と広告が、、、。
そんな時があったんですね。
三和銀行はあるけど第一勧業銀行がトップだったんじゃないか。
いやいや思い出したが、第一銀行と勧業銀行が合併したのは1960年代だったから、、、影も形もなかった。第一銀行は古川財閥グループだったし、勧業銀行は政府の持ち物だった。
東海道線のタイムテーブルを見ると約30分ごとに列車が走っている。
時刻表の表紙が蒸気機関車だけど、東京駅を出発するときは電気機関車が牽引していたんじゃないか。
どこかで電気機関車と蒸気機関車がチェンジしていたはず。
私が幼いころ御殿場経由で山中湖と富士山の5合目まで行ったことがあるけど、小田急線で新松田駅まで行き御殿場線に乗り換えして行った。その時の御殿場線は蒸気機関車が牽引してきて怖かった記憶がある。蒸気機関車には左右に煙除き板がついていなかったので9600形式の機関車だったかな。記憶に残る汽車はそれが最初でした。
広島が親の故郷なのでよく帰郷した時は、芸備線の混雑が凄まじくて窓から出入りしていた。しかも列車に乗ったら身動きができないくらいで、網棚の上まで人が乗っかっていた。戦後の中国や東南アジアからの引上げ船がそんな感じの混雑ぶりだったんじゃないか。蒸気機関車が牽引する芸備線に窓から入って窓から出た。通路やトイレまで人が満員だった。たぶん暑かっただろうが、列車に乗れて目的地へ行けるだけでも嬉しかった記憶がある。
最後の蒸気機関車は北海道へ行った時かな。まだ大学生で北海道の室蘭に父の用事で行った。本州の鉄道は幹線はほとんど電化されていたが、北海道は幹線まで蒸気機関車が牽引していた。鉄マニじゃなかったけど列車の乗るのは大好きだったので、思う存分蒸気機関車の旅を楽しんだ。旭川から帯広へ抜けるの普通夜行寝台列車があって、各駅停車の寝台車に揺られて旅をした思い出がある。時間がいっぱいあった時代です。私も若かったし時間が無限にあると思っていた、、、。
北海道の尾岱沼でも蒸気機関車を見た記憶があるが、、、もしかして濤沸湖の間違いだったのかもしれない。この鉄道地図には尾岱沼を通る鉄路がない。真冬で雪原を雪を蹴立てて突進してくる蒸気機関車がカッコよかった。
昭和23年には北海道の鉄路は隅々まで走っていた。このほかに北海道では牛乳など酪農用の軽便鉄道や森林鉄道が走り回っていた。
2022年9月北海道遠軽の森林鉄道・SL雨宮21号に乗りに行く(YouTube付)
https://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/16eba42103fd271407b325cfac3056b7
Yahooの記事から(下の写真は新宿らしい。私が芸備線に乗ったのはそれから10年後の話です。地方はまだ混乱していた)
https://news.yahoo.co.jp/articles/25e10ecb5febba7e34bb8c29bb6279354880d7a1
1945(昭和20)年8月15日は人々にとって、空襲や艦砲射撃の恐怖から解放された安堵の日であったと同時に、物資も食料もない中で「戦後」を生き抜く新たな戦いが始まる悲壮な日でもありました。 【画像】えっ…! これが「終戦直後の東京の電車」です 国が大きく動揺する中、変わらず動き続けたのが鉄道でした。戦争末期の大規模空襲で設備、車両が大きな被害を受ける中、国有鉄道は貨物主体の「決戦輸送」を敢行していましたが、終戦後は引き上げ輸送、進駐軍輸送、外国人送還輸送など大量の旅客需要に応える必要が生じたからです。 ようやく落ち着きを取り戻したのは、日本国有鉄道発足とあわせて実施され、特急列車、一等寝台などが復活した1949(昭和24)年9月のダイヤ改正頃からと言われています。ではそれまで、生きるか死ぬか「激動の4年間」の鉄道はどのように動いていたのか。当時の新聞から辿ってみることにしましょう。 まずは1945(昭和20)年9月29日の朝日新聞から「乗客を犬箱に監禁 東京駅員の暴状発覚」という衝撃的なニュースです。記事によれば8月15日頃から1か月にわたり東京駅の小荷物係の駅員9人が結託し、駅構内、列車内で乗客の身体検査を勝手に行い、詰所に連れ込んで暴行を加えた上、所持金を強奪しました。さらにこれに反抗した乗客を軍用犬輸送に使っていた犬小屋に閉じ込め、さらなる暴行を加えたというのです。 終戦直後とはいえ、このような暴挙が行われたのは当時の鉄道がそれだけ混乱の最中にあったからでしょう。同年12月3日付朝日新聞によると、終戦から11月3日までの統計で死者13人、負傷者53人が出たといいます。闇市などへ買い出しに出かける近郊居住者の増加で私鉄各社の乗客は同年3月比で倍近くになっている一方、輸送力は2~4割減となっているため、まさに地獄のような大混雑となっていました。
混雑に混乱 ピリピリした「殺伐の鉄道風景」は現代の想像を超える
1946(昭和21)年12月には、列車内で乗客整理を手伝っていた尾久駅所属の20代操車係が、あまりの混雑で気分が悪くなってしゃがんでいたところ、大宮駅で人波に襲われそのまま死亡するという痛ましい事故も発生しています。 おんぶした赤ちゃんが車内混雑で圧死してしまった母親が過失致死罪で逮捕されたというニュースに関して、投書欄では「生活のため子どもと乗車せざるを得なかったのに『混雑時に乗った方が悪い」」というのはおかしいという声が上がる一方、「混雑を放置したままなぜ運行したのか」と鉄道の責任を追及する声、車内で「子どもがいるから押さないで」とアピールして同情を誘う「非常識な母」を非難する声など、地獄のような「マナー論争」が繰り広げられる有様です。 また1945(昭和20)年12月に労働組合法が公布されると、1946(昭和21)年2月に「国鉄労働組合」が結成され、早速月末にサボタージュ闘争を繰り広げます。その結果、山手線が一周に4時間を要する事態となり、乗客は激怒。乗務員に暴行し、駅事務室を襲撃、電車に投石する騒ぎとなりました。 殺伐とした雰囲気は至るところに漂っていました。同年9月20日付読売新聞は「乗客を殴り殺す 田町駅の改札係」として、19日昼に40代乗客と20代駅員が口論になり、乗客に頬を殴られた駅員がカッとして殴り返したところ、乗客はコンクリートに頭を強打。搬送先の病院で死亡したと伝えています。 また終戦からちょうど2年が経過した1947(昭和22)年8月15日付朝日新聞は、東海道線内で制服制帽の男が乗客から現金3万円などを盗み、沼津駅で下車したが駅員に捕まった事件を報じています。なんとこの男、東京車掌区所属の本物の車掌で、しかも鉄道司法警察官吏(後の鉄道公安)を兼務していましたが、非番でも制服を着用し、悪事に手を染めていたのです。 さらに同年、川崎から宮城に向かう貨物列車の行先を、貨物駅員らが勝手に山形に書き換えて10両分の硫酸アンモニア(肥料)を奪い取ろうとし、6人が逮捕。おまけに北陸線ではヤミ米を積み込んだ機関車が立て続けに発見され、運転士らが逮捕されています。
(第一勧銀は当時、普通銀行になる前。広告を打つ必要ない立ち位置でした。)
旅行会社みたいな公社の存在意義がわからないですねー。