ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ジャ.ジャンクー

2007年10月11日 | 映画


今年初の映画館での映画「長江哀歌」を見て、監督の
ジャ.ジャンクーをもっと知らなくてはとHMVでDVDを
2本注文したが「青の稲妻」が欠品で、ならば「プラット
ホーム」だけ先に送ってもらおう、ということになり、
その「プラットホーム」は直ぐに到着し、早速見る事
と相成った。

時代は、二三十年前の中国のどこかの田舎。
この辺はアバウトである。
というのも、村の名前はあるのだが、どうも中国語の
固有名詞は覚えにくいのだ。
登場人物の名前も、当然のこと中々覚えられない。
会話の中でどっちだったっけというのは、最後まで続
いた。
人間関係は、名前によって整理されてくるのだが、ジャ.
ジャンクーの映画は(まだ二本目だが多分)、あまり
そういう特定の人間関係に重きを置いてないように思
える。
濃密な人間関係を描く、というのとは対極のように感
じるのだ。
だから、たとえ名前が誰なのかということが分からな
くても大して問題ではない。
すべては、風景の中にある出来事。
つまり、風景がこの監督の撮りたいものではないだろ
うか、とどうしても思えてくる。
様々な物語が生起する場としての風景。


主人公は一応いるのだが(長江哀歌にも出てた)、仕
事も脚本家なのか作家なのか良く分からないし、恋人
らしき人間もいて(彼女も長江哀歌に出てた)、その
二人を中心に(と言っても飽くまでも風景の中の中心
的人物)、時代は現代まで進む。
ところが、その時代の経過は、例えば20年後という
テロップが入るとかそういうものではなく、唐突に変
わる。
一瞬、どうなってるのかと、戸惑う。
かなり分かりにくいつくりになっている。
同じ場所を撮っていて、その風景の微妙な変化によっ
て、時が変わったことが分かるようになっているのだ
が、何せ中国の田舎、日本のように劇的な変貌を遂げ
てるわけではない。
相変わらずの埃っぽい、日本で言えば戦前のような風
景の村が、そこには存在している。
そこに、相変わらずの同じ人間が同じように暮らして
いる。
しかも、主人公の男性は一旦村を出て戻ってきたらし
い。
そして、恋人とはどうなってるのか、と思うがその辺
は詳しく描写する事はない。
くっ付いたり別れたりという、人間ドラマに焦点は一
切当てない。
しかし、結局は一緒になったらしい、という場面は最
後にあるのだが、これも、一風景としてさらっと流し
映画もさらっと終わる。

劇的なものを期待すると、これほど退屈な映画は無い
のではないか。
物語として捉えたら、相当判り辛い。
ここで感動という仕掛けも一切ないし、一体どこが面
白いのかと言われる典型的な作品である。
しかし、これが世界だ、と言われたら納得できる人も
中にはいるのではないだろうか。
そういう人にとっては、魅力的な作品であると断言で
きる。
一般的には、全く奨められないが。

そういえば、主人公の従兄弟で「サンミン」という人
物が登場したが、役者も名前も炭鉱夫という設定も「長
江哀歌」の主人公と同じだったが、これは単なる監督
の遊びなのだろうか(長江哀歌に於いては)。
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