テイク・ア・チャンス プロジェクトで、ストレート・プレイを見せて貰えるなんて、思いもしなかったから、かなり驚いてしまった。事前になんの知識も入れずに見たので、イヨネスコの『椅子』という戯曲を題材に岩下徹さんがどんなふうにアレンジしてパフォーマンスとして見せてくれるのか、なんて思いながらAIホールに行くと、なんと、きちんとしたセリフ劇で、しかも2時間もの大作。役者は3人で基本的には2人芝居。岩下さんと細見佳代さんが出ずっぱりで見せるのだ。
この2人が次から次へとやって来るお客さんの相手をしながら、部屋の中に彼らが座るための椅子を用意していく。最初はちょっと観念的なセリフと、2人と客との関係性なんかもよくわからなくて戸惑うが、椅子が部屋いっぱいにあふれ出してくるところからは、その圧倒的なスペクタクルに引き込まれていく。
あれよ、あれよという間に椅子は立錐の余地もないまで部屋を占拠していくのに呆気に取られる。そして、舞台両サイドの暗幕が落ちて、さらには舞台奥階上に明かりが点いた時、そこには数え切れない椅子がぎっしり並んでいることを目撃する。圧倒的な迫力である。
さらには舞台奥の扉が開いて強烈な照明の明かりのもと、皇帝がやって来るところでドラマはクライマックスを迎える。
だが、芝居はこの後も続く。第3の登場人物である講演をする男がやって来たところから、終幕までが正直言ってちょっとしつこかった。テキストにあるのだろうから、カットできなかったのかも知れないがくどいと思った。
水に囲まれた島に暮らす2人の男女。彼らが待ち続けるものは何なのか。実態のない村人たち。皇帝。舞台ではもちろんそれが誰も居ないことで表現されている。人で溢れかえる(実際にはここには2人以外誰もいないが)この家に増え続ける椅子の不気味さ。クライマックスで2人が自殺する。そして、最後にやって来る弁士は喋れない。
演出、美術を兼ねる杉原邦生さんはこのテキストを自分なりのビジョンでしっかり見せてくれるので、安心して見ていられるが、台本に関してはもう少し大胆なアレンジをしてもよかったのではないか。これではあまりに単調すぎるし、長すぎる。
本来役者ではない岩下徹さんを使ったことにどんなメリットがあったのかも、かなり微妙だ。せっかく岩下さんをこの役に抜擢したのに、彼の身体表現を封じさせることにどんな意味があるのだろうか。これなら普通の上手い役者を使ったほうが良かったのではないかなんて思わせるのは、なんだかまずい気もする。
この2人が次から次へとやって来るお客さんの相手をしながら、部屋の中に彼らが座るための椅子を用意していく。最初はちょっと観念的なセリフと、2人と客との関係性なんかもよくわからなくて戸惑うが、椅子が部屋いっぱいにあふれ出してくるところからは、その圧倒的なスペクタクルに引き込まれていく。
あれよ、あれよという間に椅子は立錐の余地もないまで部屋を占拠していくのに呆気に取られる。そして、舞台両サイドの暗幕が落ちて、さらには舞台奥階上に明かりが点いた時、そこには数え切れない椅子がぎっしり並んでいることを目撃する。圧倒的な迫力である。
さらには舞台奥の扉が開いて強烈な照明の明かりのもと、皇帝がやって来るところでドラマはクライマックスを迎える。
だが、芝居はこの後も続く。第3の登場人物である講演をする男がやって来たところから、終幕までが正直言ってちょっとしつこかった。テキストにあるのだろうから、カットできなかったのかも知れないがくどいと思った。
水に囲まれた島に暮らす2人の男女。彼らが待ち続けるものは何なのか。実態のない村人たち。皇帝。舞台ではもちろんそれが誰も居ないことで表現されている。人で溢れかえる(実際にはここには2人以外誰もいないが)この家に増え続ける椅子の不気味さ。クライマックスで2人が自殺する。そして、最後にやって来る弁士は喋れない。
演出、美術を兼ねる杉原邦生さんはこのテキストを自分なりのビジョンでしっかり見せてくれるので、安心して見ていられるが、台本に関してはもう少し大胆なアレンジをしてもよかったのではないか。これではあまりに単調すぎるし、長すぎる。
本来役者ではない岩下徹さんを使ったことにどんなメリットがあったのかも、かなり微妙だ。せっかく岩下さんをこの役に抜擢したのに、彼の身体表現を封じさせることにどんな意味があるのだろうか。これなら普通の上手い役者を使ったほうが良かったのではないかなんて思わせるのは、なんだかまずい気もする。