沢木さんのこの新刊はここ30年間に書かれた読書に関するエッセイを集めたものだが、書評ではない。「本を買う」からスタートして「本を読む」、「語る」、「編む」を経て最後は「本を売る」まで。さまざまな文章はまさに本を巡る沢木さんの世界で、旅と同じく本が彼の人生そのものだということを改めて実感させられる。
圧巻は山本周五郎の短編集(『山本周五郎名品館』)の解説だろう。4冊に収録された作品すべての解説を書いている。短編なのにあらすじを丁寧に書いて、簡単な感想を添える。彼が編んだアンソロジーの最後に全体についてのエッセイと、個々の作品の解説を併記して掲載する念の入れようなのだ。それはなんと90ページに及ばんとする分量だ。(この本の全体が400ページほどなのに!)短編本文を読んだ読者にこれだけ丁寧なあらすじと説明を付与するってお節介を通り越して、感動的ですらある。
僕の父は山手樹一郎が大好きだった。膨大な文庫本が彼の部屋には並んでいた。だけど、僕はそれを数冊しか読んでいない。つまらないと思った。時間のムダ。そんなのを読む時間があれば三島や谷崎を読むから、と。なんて傲慢な高校生だったのだろうか。(しかも、本人は三島より石坂洋次郎が好きだったくせに)山本周五郎の『日本婦道記』はそんな父の本棚から見つけた。そんなことも今回この本を読みながら思い出している。
冒頭近くの天神橋筋商店街2泊3日の旅のレポートも嬉しい。僕にとっては庭みたいな場所を沢木さんがどんな風に書くのか、楽しみながら読んだ。最後にもまた身近な場所である紀伊國屋書店梅田店のエピソードを収録してあるのも嬉しい。沢木さんがここで働いていた(?)時、僕は中学生で時々ここにも来ていたことを知る。僕は旭屋書店梅田店が好きだったから紀伊國屋にはあまり行かなかった。だって紀伊國屋は人だらけで、迷路みたいだったから。沢木さんがここに書いている通りだ。あの頃、10代前半の時代の気分がこの本を読みながら蘇る。50年はあっという間の出来事だ。沢木さんは梅田の紀伊國屋での体験の後、深夜特急の旅に出た。僕は同じ時、高校生になった。
この本を巡るエッセイ集を読みながら、まるで自分の過去を追体験している気分になる。ここには本がある。僕もまたずっと本と共に人生を過ごしてきた。そして今、毎日本を読んで暮らしている。
沢木さんはいつだって僕たちの指針だ。僕が初めて文庫本を手にしたのは中学生になってすぐのことだ。最初の中間テストでいい点を取った記念に何か好きなものを買ってあげるって母に言われた。一緒に本屋さんに行って、手にしたのが、壺井栄の文庫本『母のない子と子のない母と』だった。140円くらいだったはずだ。何故その本だったのだろうか。答えは明白で、小学生だった頃に読んで感動した『二十四の瞳』の作者の本だったから。それだけ。母はもっと高い本を買っていいのに、と言った気がするけど、僕はそれがいいから、と固執した。本は書店のカバーを付けられて手元に届く。嬉しかった。文庫本は大人への第一歩に思えた。そんなことを思い出す。母は死ぬまで毎日本を読んでいた。父の残したボロボロになった文庫本を繰り返し読んでいた。そんな本も今はもうない。家と一緒に処分してしまった。
夢の町は本の中にある。本通りの本はもちろん書物のことでもある。これもまた沢木さんの世界を堪能させてくれる一冊だ。