湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ドビュッシー:神秘劇「聖セバスティアンの殉教」抜粋

2017年12月20日 | ドビュッシー
○モントゥ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R,WHRA)1951/12/1live・CD

モントゥらしい、ワグナーとドビュッシーの交互プログラムという啓蒙的な一夜の記録だが、これ、ナレーターは抜粋と言っているが、管弦楽のみにより、恐らく交響的断章だろう(音楽的記憶力がないので定かではない、誰か検証してくだされ)。アメリカオケでこう真正面からやられると何かアングロサクソン的な音楽になるというか、初期なんだか晩年なんだかわからない「わかりやすい」楽想と「不可解な」楽想の混沌のうちに、例えばグリフィスとか、例えばイギリスの群小作曲家とか、そのあたりが稀に仕上げる佳作に見られる垢抜けた印象派ふう表現が、輝かしくもこの作曲家には不釣合いにも思える壮大な「クライマックス」を築き上げる。モントゥはほんとに職人で、未だバラケ味も含め艶のあるこのオケの魅力を引き出しつつも、基本は自分の掌中でまるでルービックキューブのように組み立ててしまう。ルービックキューブなりに色がそつなく揃い過ぎてしまうところは否めないかなと思うが、色彩が整理され聴き易いことも確かで、「パルジファル前奏曲」と「ラインの旅と葬送音楽」に挟まれていると、ディーリアスの長大な歌劇をマッケラスあたりで聴いている気分にもなる。録音が悪いが、性急でスマートなワグナーと違和感無くうまいバランスをとっていることも含め○。WHRAは状態もほぼ同じ。初曲と終曲だけの編曲?

※2009-01-04 13:24:55の記事です
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☆ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ

2017年12月16日 | ドビュッシー
○シゲティ(Vn)ボーガス(P)(mercury)

CDになっていると思う。ステレオ盤ということは技術的に既に問題が発露していた時期ということであり、音色の不安定な艶めかしさと新即物主義的な非人間性がアンバランスな状態で同居しているさまは、ドビュッシー好きの極右極左双方に受け容れられないかもしれない。ステレオ期のシゲティについてはメニューヒン同様評価がなかなか難しい・・・表現力はあるのだ、指圧だけの問題なのだ。

曲的にも非常に独特であり譜面も何か変で、2声部をただ小節線とハーモニーを揃え、併置しただけのような単純さと、不安定感があり、ラヴェルで言えば混迷期に書かれたデュオソナタを極度に素朴化したような印象が残る。まさにピアニスティックでヴァイオリンで表現するには余りに機械的すぎる細かい音符や和声的な動きを、ピアノの極めて単純化された「伴奏」に載せていくさいの非アンサンブル的な重層性は、トリルやアルペジオをヴァイオリン独奏だけに多用するRVWの狂詩曲ふう「あげひばり」に似ているけれども、この人弦楽器のメリットがわかんなくなっちゃったんじゃないか、という「不自然な横の流れ」がまったく違う。まあ、これを曲に聴かせられる人はティボーくらいだったんじゃないか。

特徴的なエスパーニャな曲想さえそれとわかるように浮き彫りにするのが難しい(即物主義者シゲティは当然そういう生臭要素は無視して全編同じ調子で弾き切っている)。ラヴェルのように楽譜を音にすれば自然にそうなる、ということが無く、演奏者が無理やり楽想の「継ぎ目」を意識して演奏法を変えていかなければ、最初から最後までのんべんだらりとした枯れた曲になる(単純さと奏者の表現力任せという点ちょっとディーリアスのソナタの3番に似ている)。最晩年新古典主義期の末尾に位置する曲だが、白鳥の歌ならではの未完成の感すらある。そうそう名演のない、いや恐らくちゃんと名演と評価できる演奏録音の無い曲であり、シゲティのこのステレオ録音においてはただその晩年の不安定な音の独特さを楽しみ、しかし指はしっかり回っている、小節線の間の音符を全部ちゃんと音にしている、そういった即物表現をボガスの確かな伴奏の上に楽しむ、それだけでよいのだろう。

○。

※2009-01-20 10:07:37の記事です
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☆ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ

2017年12月09日 | ドビュッシー
◯ジェラール・プーレ(Vn)リグット(P) (SAPHIR)live
・CD

スペイン風味は皆無だがライブのせいか他盤より熱を帯びている感がある。粗さと表裏一体になりがちだがここではその心配はない。父ガストン・プーレ氏とドビュッシーの共同作業で生まれたようなこの曲を、表現こそ曲の要求するような幅がないものの我が物のように完璧に弾きこなし、その腕によって譜面上見えるよりも数倍難しい曲であることを今更認識させる。音色が柔らかく安定しすぎていて激しさがなかなか出ない奏者だと思うがこれは激しい。ピアノは丁々発止と言っていいのではないか、これも激しくやりあっている。

※2013/7/22の記事です
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☆ドビュッシー:チェロ・ソナタ

2017年12月07日 | ドビュッシー
フルニエ(Vc)プーランク(P)(TAHRA,HARMONIA MUNDI)1953/3/26トリノ放送・CD

はらはらと枯葉が落ちるようにはかなく哀しい冒頭からスペインの快活な舞曲にいたるまで僅か10分余りの曲だが三楽章をいっきに聞かせる力のある晩年の傑作である。録音の篭りもあって一楽章はいささか地味である。品よく個性の匂いのしないチェリストであり、この民族色濃い曲にあわないというか、さっぱり伝わってこないのだが、プーランクがなかなかやってくれる。明快快活で流石ヴィニェスの弟子、と膝を打つ煥発さだ。細かい所チェロともどもごまかしに聞こえる表現もなきにしもあらずだが、身を斬られて骨を断つ、まさに名人芸の勢いある演奏だ。フルニエの三楽章におけるフレージング、短いレガート表現の的確さには舌を巻く。求道的すぎるというか遊びが欲しいし色が欲しいしピチカートはロシア人みたいにバチバチ指板に当てて欲しいものだが、録音が迫力を捕えきれてないだけのようにも思える。弱音の響きの美しさ、情趣は寧ろプーランクのものだ。うーん、ジャンドロンにくらべ聞き劣りは否めないので無印。

※2005/7/12の記事です
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☆ドビュッシー:バレエ音楽「遊戯」

2017年11月30日 | ドビュッシー
◎モントゥ指揮ORTF(M&A)1955/6/9live・CD

これが「バレエ音楽としての」遊戯である。素晴らしい。録音の古さは関係ない。この色彩的な音楽がステレオでないことは残念だが、「内容的にステレオのように」聞こえるのがモントゥの素晴らしい音響感覚を示している。バランスがいい。スクリアビンのような音楽、という評をこの曲にかんしてはここに散々書いていた気がするが、モントゥはそんなことを微塵も感じさせない。かれの頭の中には「バレエ」があるのである。踊れなければいけない。場面転換は素早く、ただそのステップを煽るためだけのリズム、キレのいい音表現。直線的な音楽になりかねないが、しかしこの曲をねっとりやってしまうと単なる劇音楽になってしまうし、何よりドビュッシーにワグネリストというレッテルを貼り直さなければならなくなる。ORTFの演奏陣のセンス、表現の繊細さにも帰するメリットとも言える。ORTFは色の付け方を間違えると半端にロシア的になったり崩れたりアメリカ的無味乾燥にもなりかねないが、モントゥとの相性はやはりいい。双方の音質に対する鋭い感覚が一致しているのだろう、ここで聴かれる弦には野暮の微塵もないし、木管が素晴らしくいい。押し付けがましさが無いのが何よりいい。最後のギロチンのような絶ち切れ方まで、舞台が瞼の裏に浮かんだ。◎。ま、私の理想がこれというだけの妄想でありますが。

※2007/7/6の記事です
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ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲

2017年07月24日 | ドビュッシー
○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団他(ODEON/columbia/Parlophone)SP

ODEONだと雲と祭は連番でシレーヌのみ離れており、ばらばらで録音した可能性がある。ピエルネの指揮は硬直したようにかんじることが多いのだが、一楽章はなかなかの雰囲気。まさに夜の雲、静かに浮かび、繊細だ。動きのない曲のほうが向くのかもしれない。楽団のソリストの音が懐かしい。

祭は雲とのコントラストを期待するが、思った以上に鄙びており、むしろピエルネらしい硬直したものとなっている。そも非力な録音から期待される音量を出しきれず聴き取れる変化の幅がかなり狭い。ピエルネの盤にはしばしばあることだが元の録音がそうなのだろう。リズミカルに自由にやるにも、録音上の制約もあったかもしれない。演奏的に弦など心許ない、バラけたようなところがある。木管は良い。中間部で物凄く音量とテンポを落とし、いつペットが吹き始めるんだというリズム打ちが延々続く解釈は面白い。やり方が機械的で現代的だ。壮麗というより、次のシレーヌへつなげるように終わる。

シレーヌは印象派音楽表現のセンス溢れる素晴らしいもので合唱とオケのバランスもモノラル録音としては理想的。美麗で典雅。ブレの無い克明な演奏からはアンゲルブレシュトあたりに通じる、フランス特有の曖昧さを排したオケコントロールぶりも伺える。SPゆえ速めのテンポをとっている可能性があるがそう感じさせないのは音色の繊細な妙だろう。○。

(日本パーロフォン盤の全曲(祭)を入手したためODEON盤評と併せてまとめました)
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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

2017年07月17日 | ドビュッシー
マデルナ指揮トリノRAI交響楽団(SLS)1967/9/17live

ノイジーだがクリアな録音。演奏は適度に感情的で瑞々しい透明感がある。ソロより合奏を楽しむ演奏であり、伊オケが色彩的にやるとなかなかボヤッとした印象派というより明瞭な幻想音楽として伝わってくる。佳演。
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☆ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年07月16日 | ドビュッシー
○バルビローリ指揮ブカレスト・フィル(archipel)1958live・CD

個人的にバルビの海のベスト。ほんとにバルビ?というくらい弛緩がなく、硬質で東欧的なオケのせいもあるだろうが横揺れもさほどせずにダイナミックな起伏をつけていく。ちょうどNYPの頃のバルビの直線的な芸風に近いが、うねるような作為的な動きも目立たない。シンフォニックな演奏というわけでもなく、確かに幻想味は無いが純音楽として楽しめた。3楽章の力強い盛り上げが素晴らしい。オケ達者。リマスターもよい(残響付加モノラル)。archipelは安いのに凄い。昔はこういう演奏が「新発見」としてえらく高く売り出されたりしたもんだけど。LPならとくに。○。

※2008/9/10の記事です
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☆ドビュッシー:3つの交響的エスキース「海」

2017年07月14日 | ドビュッシー
○ミュンシュ指揮トリノRAI放送管弦楽団(TAHRA)1951/6/8LIVE・CD

せっかちで焦燥感に満ちた「戦後的な」演奏。ものすごい速く、トリノもトリノらしいカンタービレとは無縁のドライなテンション芸を駆使し、余りに速いところは弦がばらけて散々なのだが、気持ちはついていくという、まるでシェルヒェンのもののような独特の魅力に溢れている。3楽章も前半やばいが、最後の夜明けにいたる前には初めてルバート気味のフレージングがきかれ、もちろんその後も異常な速さはかわらないのだけれども、情緒的な揺れが若干ではあるが音にあらわれる。結局激しい表現というよりスピードで押し切って断ち切れるように終わる。ミュンシュにしても独特、そこを買って○。

※2007/3/27の記事です
Comments (6)
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ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年07月13日 | ドビュッシー
セル指揮クリーヴランド管弦楽団(forgottenrecords)1957/6/12live放送

録音はノイジーでモノラルなのに不安定で厳しい。演奏は基本的にサラサラしていて速いインテンポを崩さないが内声まで行き届いた統制により原曲の響きや構造の魅力が透過して伝わってくる。この力強いでもなく明晰でもなくしかしまぎれもなく新即物主義にたった「薄い」演奏ぶりはセル独特のものでリヒャルト・シュトラウスやトスカニーニとも違っている。これが3楽章で一気に急くように畳み掛けるように、ルバートすら交えながらどんどん迫力を増していく計算もまたセル独自のものだろう。鼻歌まで入って拍手は盛大だ。
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ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲

2017年07月09日 | ドビュッシー
コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団他(lys他)CD

カラッと乾いて即物的な芸風に曲があっていて、SP期のものとしてはデッドな音質にもかわらず硬質の幻想を立体的に描き出し、ピエルネよりモダンな組み立ての合理性がプラスに働いている。特徴的なのは緩急の緩の部分の美観で、憂いすら帯びた表情はオケのメリットかもしれないが、リズムとスピードだけではない、コッポラ(と録音にたずさわるすべての技術者)が録音芸術として、ラヴェルのような明晰さで同時代の香りを伝えてくれているのは驚きだ。コッポラの芸風から「祭」のみ聞き所と考えるのは早計で、「シレーヌ」のダイナミズムを感じてほしい。無歌詞女声合唱がオケの牽引役として機能し、弦などオールドスタイルの音色を引っ張りながらも、そうであるがゆえに、何か異界の風を感じさせる流石の出来となっている。トスカニーニの肉汁滴る音楽の時代に、フランスではこうやるんだという心意気を聞かされる思いだ。
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☆ドビュッシー:フルートとハープ、ヴィオラのためのソナタ

2017年06月22日 | ドビュッシー
○ランパル(Fl)ノルドマン(Hrp)ブルーノ・パスキエ(Va)(SAPHIR)1999・CD

ランパルの音線がさすがに細く、速いパセージでは心もとない指遣いも気にはなるが、それを補って余りある他二人の演奏へのパッションが全般として心地よい聴後感をあたえることに成功している。とくにヴィオラが凄い。ランパルの最早個性も押しの強さもない達観したような音遣いはむしろドビュッシー的な幻想味を全般に雰囲気としてあたえ、ノルドマンも個性的ではないが確かな表現をけして雰囲気を邪魔しないように綺麗にのせてきている。3楽章のパスキエを中心とした火花散る音楽の交感が聴き物だろう。ここでのヴィオラは非常に激しく、込み入ったアンサンブルを面白くまたなめらかに聞かせてくれる。改めてドビュッシーがこの曲に「取り戻した」形式感の存在を感じ立体的な音の交錯に耳を奪われる一方で、モザイク状に組み合わされた変則リズムを如何に違和感なくすっと聴かせるかだけではなく、「その違和感こそがドビュッシーなのだ」という部分もちゃんと残している。ドビュッシーを一本の音線で聴くとけっこう無作為で気まぐれなリズム変化や転調が頭を混乱させる結果になりかねないが、そこがやはりドビュッシーの現代性でもあり、ラヴェルにはできない特異な才能の発揮されている部分なのである。二拍三連的な変拍子の多用もドビュッシーが切り開いたアンサンブル技巧の世界だが、その不思議な聴感に不思議な軽い不協和音をともなう旋法的旋律が載ることによって「初めて完成する」世界であることを忘れてはならない。これは表裏であり渾然一体となっており、拍子だけだったらロシア国民楽派が既にやっているマンネリズムだし、不協和音や旋法なら先発後発にいくらでも使い手がいる。それだからこそ、ドビュッシーには「印象派」という言葉によってしか表現しえない部分が存在する。晩年作品には形式を重視しすぎてどっちつかずになってしまうものもあるように思うが(ヴァイオリン・ソナタなどもそう思う。折角のピアノソロ曲にも通じる美しい素材を生かしきれずに形式でカヴァーしてしまったような)、この曲は牧神から一貫して創り上げてきたアルカイックな世界の一つの終着点として、また形式との折り合いをもっともよくつけたものとして(3楽章など驚異的である)特筆すべき、室内楽における最高峰である。編成のわりに「情熱」すら受け容れる曲なのだなあ、と改めてパスキエの表現を聴いて思った。○。

(お詫び)なんでかわかりませんがいつもとんでもない間違いをします。チェロじゃなくてヴィオラでしょうに・・・(シュヴァルツコプフをソプラノと書いて以来

※2006/12/20の記事です
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☆ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年06月17日 | ドビュッシー
○アンセルメ指揮ハンガリー国立交響楽団(放送)1965/9/20live

ヴァイオリンに雑味が多いのが気になるが、総じては技巧にすぐれアンセルメの数学的な指示をしっかり水際立った表現で音にしている。内声がよく聴こえて立体的に楽しめる。リズムのキレがよく(リズム感は普通)、ライブなりのスピード感であったり、客観的に整えるスタイルからはみ出たところは楽しい。無闇に熱狂はしないが、音響的な美しさもふくめ、これもまた海のひとつのすぐれた表現であろう。○。

※2014/2/6の記事です。音盤化したと思います。
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☆ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲

2017年05月25日 | ドビュッシー
○ストララム指揮コンセール・ストララム管弦楽団(VAI,ANDANTE)1930/2/24シャンゼリゼ劇場・CD

モイーズが1番フルートで在籍していたことでも有名な楽団。当然冒頭のソロもモイーズということになろう。微妙なニュアンスで歌うというより太く確実な発音で安心して聞かせるという側面が感じられるが、オケプレイヤーとしてはこれでいいのだろう。2枚のCDでたいした音質の差はなく、総じて悪い。SP原盤の宿命だろう。だが十分柔らかい抒情があり、雰囲気は明らかに印象派。作曲後既に数十年がたっているのだから、時代的にこのくらい意図に沿ったこなれた演奏が出てきていても不思議は無いわけだ。佳演。

※2005/3の記事です。
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☆ドビュッシー:組曲「子供の領分」~Ⅵ.ゴリウォーグのケークウォーク

2017年05月24日 | ドビュッシー
○M.ノヴェッロ(P)(EDISON BELL)1923・SP

5年後僅か30歳で亡くなった英国のマリー・ノヴェッロの録音である。レシェティツキ最後の弟子のひとりでブゾーニと演奏したこともある。これがケークウォーク??という音楽で、しょうがないとはいえ、余りノリのいい演奏ではなく、あくまでクラシカルでロマンティックなピアノ音楽といったていである。しかし音には品がある。参考:http://www.78rpm.net/column05.html
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