湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ラフマニノフ:交響的舞曲

2016年11月10日 | Weblog
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(?)LP

ソヴィエト盤ゆえどこが出しているのかレーベル名不明です。すいません(泣)。音の処理がアバウトな感は否めない。ぼわっとした聴感だ(まあガウクの特徴ではあるが)。リズムが重要な楽曲ゆえ、もっと鋭く、もっと正確な発音が欲しい。音の輪郭があいまいなのだ。1楽章はそれゆえあまり魅力的ではない(ある程度は録音のせいかも)。2楽章のワルツはリズムを崩して大きな波を作っており、違和感がある人もいるだろうが、私は印象的に思った。フレージングも艶やかで、非常に短いスパンでテンポが極端に変化する。とても感情が篭もった解釈だ。解釈を表現にするには冷静な観点が必要なわけで、この演奏も即興的な思い付きで伸び縮みをしているわけでは決して無い。強力な弦楽合奏のザッツの揃い方からしてアマチュアリスティックな感覚に支配された演奏ではないことはあきらかだ。まさにメンゲルベルク的である。この演奏でいちばん印象的な楽章だ。3楽章は私の盤の状態が極端に悪いため評しづらいが、前向きなテンポで駿馬が疾走するような表現が初々しさすら感じさせる。主部を導く警鐘をもっとガンガン鳴らしてほしかったが好みか。ゆるやかな場面になると極端に(ディジタルに)テンポを落としてデロデロにやろうとするところは古い指揮者ぽくてちょっといい。中間部の最後、ハープのとつとつとした伴奏にのったヴァイオリンのいかにもラフマニノフな半音階的フレーズにはロシアの大地に朝日の差すような独特の妖しい明るさがかもされていて面白い。ギャロップが再開するところでは各パートかなり俊敏で鋭いリズムの掛け合いを行っていて胸がすく。このテンポはガシャーンと盛大なクライマックスまで維持される。結部直前はロシア民謡的な新しい主題がひとしきり奏でられるが、短い主題回帰で騒々しく終了。つくづく・・・いい録音で聞きたかった・・・。,
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※モノラルステレオ表記について

2016年11月10日 | Weblog
大前提として1950年代前半以前の録音はすべてモノラルで、いちいち触れていません(ストコフスキなど先駆例は触れます)。それ以降なんですが、各社競ってステレオ再録音を進めていたため、原盤復刻については50年代終盤以降はステレオ前提となります。マイク本数、配置など差異は当然出ますが、ここもオーディオマニアではないので、悪すぎる場合を除いてはあまり触れません。初期のステレオ録音は焼く側(海外再版含む)の都合や、おそらく再生機械の普及具合への配慮もあって元々ステレオでもモノラル焼きのものがあり、LPはおろかいわゆる「板起こし」CDでそれがみられる場合があります。たまたま私がモノラルにしか接していなかった場合、誤認による印象変化の可能性がありますすいません。セッション録音は以上ですが、ライヴになると、とくに「オーディエンス録音」「インホール録音」「エアチェック音源」では70年代までモノラルのものがあります。書けるだけ書きますが、入手当時データ不備で古い録音と思って書いてないこともありえます。ご注意下さい。一応放送用正規ないしそれなりの技師が個人的に収録したものでも、ライヴ記録を目的達成後も置いておくという概念はかなり後年のもので(日本の放送局が80年代前後まで自局放送のドラマすら満足に残していない例はご存知でしょう)、同じように70年代でもモノラル録音はあります。後方にステレオマイク一本で、ホール残響が大きく事実上擬似ステレオと変わらないものもあります。擬似ステレオかどうかの判別は状態次第で案外難しいものもありますので、そこも誤認があればご容赦ください。
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プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

2016年11月10日 | Weblog
マルティノン指揮パリ音楽院管弦楽団(decca,london/testament他)1959・CD

後年の録音にくらべ心なしか情感が滑らかにこめられており(マルティノンで弦のポルタメントなんか聴こえるのは珍しい)暖かみを感じる。技術的には国立オケに劣るのだろうが、録音のせいもあるのだろう、高音偏重で薄く透明感のある響きがそこまで目立たず、速めにスラスラ流れていく中にしっかりオケの主張がある。このオケのこういうところは好きだった。マルティノンなので耳に残るような特長は無いが、この旧録のほうが音楽が身近に感じる。激烈な楽章のバラケっぷりも全体の中では調和している。軽快な楽章冒頭主題に回帰して終わる。木管は上手で音色が懐かしく、明瞭に捉えられたハープも好きだ。このオケとは五番とこれのみ録音している。ステレオ。
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プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

2016年11月10日 | Weblog
ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト大放送交響楽団(melodiya/venezia)CD

立体的な書法で簡素に書かれた作品だけに個々のパートがちゃんと主張し、全体はバランスをとってしっかり肉付けする必要がある。旋律だけ流し下支えと分離するようではピンと来ないし、情感に鈍感ではつまらなく、わかりにくい。変な解釈を加えずとも中低音域の楽器が高音楽器を圧するほどに強靭に演奏しているだけで、チャイコフスキー後期交響曲並の大衆的魅力を発揮する。加えロジェストはひときわわかりやすく、ロシア式にのっとって各楽想、音要素を強めに起伏を付けて演奏させる。録音バランスについてそもそも低音が強く(ソヴィエト録音が粗いのはいつものことで置いておくとして)高音楽器が相対的に弱いせいもあるが、構造的に書かれた曲は内声を決して軽んじてはならないという基本を改めて実感させられる、目の詰まった佳演だ。職人型の指揮者がときどき陥っている、自分のやり方に曲を寄せてしまう方法を、ロジェストはとらない。真の万能型指揮者であった。この時代のロジェストは神がかっている。ここでは文化省オケにない力感、技術もメリットとなっている。終わりはガチャガチャを再現しない静かな方をとっており、珍しい。しっくりくる。ステレオ。
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☆コープランド:「ホウダウン」作曲家による編曲版(1942/43)

2016年11月09日 | Weblog
◎ルイス・カウフマン(Vn)アンネ・カウフマン(P)(CONCERT HALL/VOX)

コンサートホール(VOX)原盤によるMasters Of the BOWシリーズLPの一枚に収録。コープランドをはじめさまざまなアメリカ現代作曲家の曲を演奏しているが、さしあたってポピュラリティある「ロディオ」終盤からの魅力的なピースを挙げておく。同曲の依属者カウフマンの精力溢れるボウイングは、管弦楽のヤワな響きを一本で退ける。同曲の決定盤はEL&Pのものだと思うが(あのくらい速いテンポの原典演奏ないのかなあ)、クラシック流儀ならコレ!作曲家の手短なコメントが付いている。ちなみにこのカウフマン・レガシーのVol2、コープランドだとほかにヴァイオリン・ソナタ(作曲家のピアノ伴奏)、2つの小品が入っている。ヴァイオリン・ソナタは響きにアイヴズのソナタを彷彿とさせる郷愁が篭り、フランク風の節回しもある。しかし頭の中で管弦楽に置き換えて聴いてみると、この不規則なリズム、この中音部空虚なアメリカン響き、嗚呼明らかにコープランド。 CDになっているような気もするが、確認していないので不明。MB1032。,
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☆ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容(1943)

2016年11月09日 | Weblog
○チェリビダッケ指揮ケルン放送交響楽団(ANF:LIVE CLASSIC)1970LIVE・CD

量販店や駅売りなどで見かけるたぐいの超廉価盤の一枚で、出所不明だが貴重な音源であることは確かだ。しかも(若干ソリッドすぎるが)音質もまずまず。日本語解説もちゃんとついている。100円ショップでフルトヴェングラーの貴重な音源が売られていたりと、最近こういう廉価盤は馬鹿に出来ないのだが(ポップス系ではわりと昔からこのテの半海賊ライヴ盤が多く出回っていたが)、曲目が一般の人にぜんぜんアピールしないために、何故こういう盤を出そうと思い立ったのか理解に苦しむ。でもまあ、嬉しい。この盤はひょっとすると前記のrococo盤と同演異録かもしれない。1楽章のペットの吹き方や4楽章の比較的構築的な演奏ぶりが似ているが、音質はこちらのほうが抜群にいいから、違う演奏にも聞こえなくもない。録音時間は誤差2分以内といったところか。ともにモノラル。一応別演奏として切り離して考えると、なかなかの佳演である。やはりチェリの壮年期の演奏らしく覇気に満ちており、1・4楽章の勇ましさは胸がすく思いだ。4楽章のわりとしっかりタテノリで客観性が感じられるテンポ設定には好悪あろうが、私はこのくらい壮大にやってもらったほうが好きだ。最後ついでに、ライナーから引用

~この曲は、1944年にニューヨークで初演された作品で、ウェーバーのピアノ曲などから引用したものを見事に扱っている。ヒンデミットの代表作と言っていい。第1楽章ウェーバーの4手のためのピアノ曲「8つの小品」作品61第4番。まったく調性を無視したような作曲技法である。←?めまぐるしく変わる楽器が面白い。第2楽章「トゥランドット」からスケルツォ。打楽器が極端に強められている。これは極めて興味が深い。次々と変わる楽器、次々と大きくなる編成。第3楽章4手のためのピアノ曲「6つの小品」作品10第1番。ヒンデミットらしい短い緩徐楽章。濃厚な情緒である。第4楽章4手のためのピアノ曲「8つの小品」作品60第7曲。戯作趣味濃厚なこの楽章は、華やかに、また辛辣に描かれる。(筆者不明),
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ケクラン:ピアノと管弦楽のためのバラード

2016年11月09日 | Weblog
ブルーノ・リグット(P)アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル(EMI)1982/6/15-23・CD

印象派とは繊細な和声のうつろいの醸す雰囲気を大事にしながらも、横の流れが重視される音楽と理解している。その意味でケックランは本質的に印象派の作曲家であり、バッハの研究や新しい音響への探求も怠らなかったとはいえ、1860年代生まれという時代性を感じさせずにおれない。この作品は題名に象徴される通りいくぶんにフォーレの影響下にはあり、冒頭からピアノに旋律的な要素が強いが、次第に雰囲気音楽に呑まれ、静謐な世界に溶け込んでいくように終わる。なかなかの耳触りのよさはあるが、後代のアメリカアカデミズムの作曲家たち・・・フランスの教師陣に教えを受けた者を含む・・・に似た「無個性さ」も否定できない。派手さがないのでまずもって演目にあがることはなく、ケクランが(自作において)いかに自分の世界に忠実で、自分のやりたいようにやっていたかがわかる曲となっている。教師として著名なリグットがソリストを受け持っているが、指揮者ともどもまだ若年期にあったせいか、少し深みが足りないようにも思う。ドビュッシーの「アッシャー家」断片など秘曲を紹介した「フランス音楽のエスプリ」シリーズの古いCDで、そういう意図からか時間をかけてゆっくり作った感じがしない。録音状態が決して良くはなく、とりわけ静謐な作品においては今なら環境雑音は極力除去されたことだろう。併録は「7人のスター交響曲」。
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ケクラン:交響組曲「7人のスター交響曲」

2016年11月09日 | Weblog
アレクサンドル・ミラ指揮モンテカルロ・フィル、フランシス・ペリエ(OM)(EMI)1982/6/15-23・CD

opus.130台の後期作品にあたる。四楽章にオンド・マルトゥノ表記があるが三楽章の誤り。映画スターの名前を各楽章の題としそれぞれに副題が付けられているものの、映画との関連性は皆無で、あくまでケックランの受けた印象を抽象化した曲の集合体となっている。散文的で楽章間の対比は明確ではなく一貫して個性を主張せずに職人的作風を保ち、同時代音楽の雰囲気を漂わせ、デュティユすら超えるような現代の印象派的音詩が連ねられており、三楽章「グレタ・ガルボ」のオンド・マルトノ(融和的で木管楽器のように自然に旋律楽器として取り入れられている)に至るまでは音響的な音楽が続き、鉄琴やハープ、ピアノなど高音打楽器系の楽器が空間的な拡がりを感じさせる。四楽章でやっと派手な音楽が登場するが、その後は後退したような晦渋な楽章も登場する。いずれ題名となっている俳優のイメージを知らないと、まとまりのなさに退屈してしまうかもしれない。アメリカアカデミズムの同時代曲も彷彿とさせる。長くても6分程度の曲の中で終曲のチャーリー・チャップリンは16分を越える深刻な音楽であり、ベルクを思わせるフレーズを含めその感じが強い。後輩オネゲルからメシアンに至る音楽をも飲み込んだケクランの世界の広さとともに、広過ぎるがゆえに構成感を失い散漫で掴み所のない作風を露呈している。大半が静謐なため環境雑音の気になるところがあり、調和の取れた音ではあるが強い押しが無く(フランス的ではある)、紹介者的な範疇を出ない演奏となっている。合わせれば結構な大曲、倂録はフォーレに倣ったようなメロディアスなピアノと管弦楽のためのバラード(ブルーノ・リグット(P))のみ。
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ブラームス:交響曲第4番

2016年11月08日 | Weblog
ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive

生命力に満ちたブラ4で、トスカニーニっぽいと思う人もいるかもしれないが、オケが決定的に異なる。弦楽器は言うに及ばず、ロシア式の良い部分を押し出したパワフルなブラスも聞き所。どっちも、あの音色で歌う歌う。まるで一人一人がソリストであるかのように音色を主張し、我先にと重なり轟く。オケがこの曲をとても愛しているのがわかる(直前のバルトークとの違いは明らかだ)。二楽章の心根を揺り動かされる美しさ、三楽章のリズムと音色の饗宴は素晴らしいの一言。四楽章の本来もつ古典的な佇まいは、強奏部においてはあまりに表出意欲が強すぎて軋みを生じてしまっているが、そのたぐいのことはムラヴィンスキーのライヴ全般にあることで、ロシア式とも言え、ライヴならではの魅力と捉えるべきである。音色の不統一感も音楽を分厚くすることはあるのだ。ダイナミックだが休符を効果的に使って音楽を引き締め、ラストへ突き進んでいくさまは圧倒的。ムラヴィンスキーのブラームスは素晴らしい。録音は放送レベルのモノラル。
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バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽

2016年11月08日 | Weblog
ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive

ここに立ち返ると物凄く厳しい演奏で、息が詰まる。熱量の高く目の詰まった演奏ぶりは、目前にしたら唖然としたであろう激烈なアンサンブル、ピアノが出てくるとホッとするくらい弦楽が凄い。雑味もいとわない音が激しくて焦燥感しかない。もはや楽章間の対比がどうやら言うレベルではなく終始強烈な音が途切れず、息が詰まる。終楽章にてロシア式の呻くようなポルタメントを交えた表現が出てくると、音楽の高揚に逆行して滅滅としてくる。色彩感がなく、険しい不安な光景。ただ、これは元はラジオ放送されたもので、かなり不安定で穴もあるモノラル録音(ORGANUM盤は安定していると聞いたが未聴)。そのせいで実態が歪んで伝わっている可能性が高いのは、ムラヴィンスキーの実演に触れた人間のことばからも明らかだ。最盛期には録音に収まりきらないほどの情報量をぶつけてくるコンビだったようだ。ムラヴィンスキーに対する無用な不安感を抱かないために、最近プラガからドヴォルザークホール(スメタナホール)ライヴがリマスターSACD復刻されたので、ライヴならそちらを聴くほうが良いだろう。この放送ではブラ4、ライモンダなども録音されている。
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏曲第1番(1908/21)

2016年11月08日 | Weblog
メディチ四重奏団(NIMBUS) NI5191・CD

ラヴェル師事直後のRVWはその経験を元に、極めて透明で美しい室内(声)楽を相次いで描きました。連作歌曲集<ウェンロックの断崖にて>と、この四重奏曲です。ラヴェルのそれとの類似性を指摘されるも、 あくまで調性など表面上にすぎず、メランコリックな民謡風の旋律と眩いばかりの清新な響きが見事に調和するさまは、まさにRVW芸術の確立期を告げるものとなっております。とにかく他に類を見ない個性的な曲であるにも関わらず耳触り は良いし、2、3楽章あたりはややあざとさも感じますが、4楽章の聴くものを飽きさせない溌剌としたアンサンブルは聞きごたえありです。演奏する側も無理なく楽しめる曲。英国近代室内楽の頂点。作曲家晩年を支えたウルスラ(アーシュラ)夫人監修のこの盤お勧めです。,
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サン・サーンス:交響詩「オンファールの糸車」

2016年11月08日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/11/1live

一見無邪気だが機知に満ちた小品。モノラルであまり良くない録音のため、作品の軽やかさが伝わってこない。知的に構成された作品に対しミュンシュとBSOは手慣れた調子で仕立てている。元から完成度の高い作品に余計な解釈はいらない。
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シベリウス:交響曲第7番

2016年11月08日 | Weblog

ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1965/7/30live 放送

驚くほど後期シベリウスになっている。壮大なクレッシェンドの音楽。いつもの性急なミュンシュはここにはいない。強奏が強すぎることもなく、弱音は繊細な配慮が行き届いている。この解釈にアンサンブルの乱れはありえない。音色的にブラスに気になるところはあるが、弦は素晴らしく、終盤の長い音符での詠嘆の表現にはミュンシュではありえない感傷的なものを感じる(感情的ではない)。良好なステレオ録音(右側からヴァイオリンが聞こえてくるのは苦笑するが、高音は右、低音は左という感じ)であることも同曲を聴く必要条件を備えており、ほんとにミュンシュか?と思ったらトゥッティでヴァイオリンが振り下ろすときいつもの掛け声が聞こえた(最後のナレーションでもしっかりミュンシュと言っている)。光明の中に静かに消えていく音楽もまったくシベリウス的で、クーセヴィツキー以来の伝統というべきか、いや、クーセヴィツキーのシベリウスは前期交響曲的な物語性を持ち込んでいた、これは永遠に綴られゆく音詩である。いいものを聴いた。聴衆反応はやや良い。

※過去に真逆の感想を書いているのでご興味があれば。聴取環境によって違って聴こえるということだろう。
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ラヴェル:クープランの墓組曲

2016年11月08日 | Weblog
チェリビダッケ指揮デンマーク放送交響楽団(FKM)1971/4/1live

ホワイトノイズが乗り穴もあり音像の安定しないステレオ録音。環境ノイズも多い。オケは個性的ではなく技術的にもセンス的にも優れているわけではない。細部は聴き取れないが素直なテンポ設定でさらっと流れていく。二楽章は木管の表情付けがやや恣意的で、頭拍の強いアクセントや長い音符のフレージングが耳を惹く。三楽章はとにかく繊細。四楽章は無個性さが出ているが、透明感だけは伝わる。普通の拍手。
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☆バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943)

2016年11月08日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(NAXOS Historical他)1944/12/30live・CD

初演直後の記録で、フィナーレは初版(カット版)によっている。それでなくとも現行版と違う(譜面どおりなのか?クーセヴィツキーだからなあ)この演奏、”オケ・コン”に親しんでいた向きには、違和感は否めないだろう。私自身は余りこの曲に親しんではいないのだが、精妙な響きの交歓と複雑なリズムの面白さを追う類の華麗にして精巧な組曲、という印象があったのに対して、余りにロマンティックな構成感に基づく「勢い」と「ぶ厚い」響き、曲の”ききどころ”が「古い国民楽派」側にシフトしてしまい、同時期のヒンデミットの、しかも出来のよくない管弦楽曲(何の曲?なんて聞かないでくれー)、あるいはロマン派を固持し続けたマイナー作曲家のしかも「どマイナー曲」を聞いているような、耳痒い感覚を覚えた。暗い熱気を帯びた楽想のがちがちとした構造物、錯綜し、「起承転結」がハッキリせず、掴み所の無いまま狂乱する駄曲に聞こえてしまう。「起承転結」を創り出す演奏家には向かない曲なのか、そもそも。でも、クーセヴィツキーの棒のダイナミズムはとくに舞曲にて破裂せんが如く荒れ狂い、例の間奏曲「レニングラード(ショスタコーヴィチ)」の揶揄とされる唐突な旋律も凄みを帯びて轟きわたりとても揶揄とは聞こえない。寧ろそのへんがききどころで、「夜の歌」を聞くべき悲痛な緩徐楽章は余り魅力的ではない。そうそれが、問題。いや、録音が悪いので、この演奏が本当に「魅力的ではなかった」のかどうか、実際のところはわからない。このオケは、各パート、おしなべて巧い。アメリカ亡命後のハンガリーの作曲家、悲惨な状況。既に病深く、シゲティやライナーを初めとした「業界」の友人に、”注意深く”支えられながらも、聴衆に媚びを売ること無く、孤高でありつづけようとした作曲家のプライドは高く、結果ひたすらの貧困が襲いつづける。理解されないまま自作の演奏機会を失われた作曲家は、自身の演奏活動にしても体力が続かず、ライフワークである民謡研究すら困難となる。1943年には病の為ハーバードでの折角の講義を中途で終わらざるを得ず、傷心のまま入院。結局リヴァーデイルの自宅を退き、サラナクのサナトリウムに滞在することとなる。まもなく明け渡すことになるリヴァーデイルの宅に、5月、福音のように舞い込んだ手紙が、世界一二を争うボストン交響楽団の盟主クーセヴィツキーからの、管弦楽曲作曲依頼であった。内容は明確な報酬金額の提示と簡潔な主旨(故クーセヴィツキー夫人の想い出に捧げること及び財団での手稿保存)以外の何も記載されない簡潔なものだったが、 4年という長いブランクを経て大曲依属の機会を得たことは、金銭的なこと以上に作曲家をこのうえなく喜ばせたという。まもなくクーセヴィツキーはバルトークの病床を訪れ、本依属には一切の強制力がなく作曲期間の指定なども無い、作曲できるときに作曲してくれればいい、という言葉と小切手を強引に残して去っていった、とされている。無論この件クーセヴィツキーだけの意志ではなく、ライナーらの助言があったことは言うまでもない。サラナクで回復の兆しが見え出した8月、バルトークは早速この依属作品に取り掛かる。没頭すればするほど病は回復に向かっていった。サラナクを去り、ニューヨークで校正を終え計算すると、作曲期間は僅か55日だった。それが全5楽章の大曲「管弦楽の為の協奏曲」だったのである。メニューヒンからの「無伴奏」依属など、これを嚆矢に作曲依頼や演奏機会は目に見えて増え始めた。しかしまもなく再び病が深まり、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ後にはプリムローズからの「無伴奏」依属、ならびに妻であるディッタさんが演奏するための、完全なる私的作品「ピアノ協奏曲第3番」だけを選ぶことになった(言うまでもなく遺作となった作品群である)。冬も近いころメニューヒンが無伴奏を初演。カーネギーには称賛の嵐が吹き荒れ、演奏共々舞台に上った作曲家を感激させた。その5日後、1944年12月1日に「オケ・コン」は初演された。バルトークは医師の忠告を退け、ボストンへ向かい臨席した。希に見る大成功であり、クーセヴィツキーは「過去五十年における最高の作品」と熱弁した。譜面にはクーセヴィツキー在籍20周年及び70歳の記念に、とも記されている。クーセヴィツキーと「オケ・コン」の関係はこういったところである。この録音の「存在」はどこかで聞いたことがあったのだが、まさかナクソス・ヒストリカルで復刻されるとはおもわなかった。展覧会の絵(1943/10/9)とのカップリング、安いですよ・・・。この調子でクーセヴィツキーゆかりの現代音楽の、放送録音を掘り起こしていって欲しい。ハンソンの「ロマンティック」とか、コープランドの3番交響曲とか、絶対残っているハズ!・・・話しがシフトしてしまいましたね。聞き方としては、フリッチャイ、ドラティの定番やセル、ショルティらの精巧な演奏で触れてからここ(クーセヴィツキー)に戻る方がいいと思います。あと、雑音だらけのモノラル録音に慣れない方には(この曲では嫌だという向きにも)決して薦められません。,

後注)初演記録と称する盤(既書、stradivarius等)も出ていたがこの録音と同一と確認されている。pristineから周到なレストアのされたものが出たので未聴なら検討されても良いかと。ちなみに文中コープランドの3番の存在可能性に触れたが、まさにpristineで発掘復刻された(既書)。
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