湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ルーセル:ヴァイオリン・ソナタ第2番

2016年12月25日 | Weblog
アンドラーデ(Vn)カステル(P)(meloclassic)1955/3/17フランス放送用スタジオ録音・CD

フルートトリオや交響曲第三番といった作品を生み出した、ないしその直前の全盛期1924年のものだが、一楽章はいきなりの晦渋さ、対照的なピアノのフランス的なリリカルな響きの奇妙な重なりに、少し後の名作とは言い難い難解なピアノ協奏曲を想起させられる。だが古典音楽的な均整(と窮屈さ)もあり、二楽章にてオリエンタリズムが炸裂するも結局古典的な型式感が支配的になるところは、どうにもまだ個性が出し惜しみされ惜しい。三楽章はそこまでほとんどピアノ、たまにヴァイオリンのメロディの一節にしかあらわれなかった叙情が、一連の三重奏作品に共通するサロン音楽的な躍動を持ち込み安心する。ピアノの細かい動きは他の有名トリオには現れなかった技巧的なもので、オリエンタルな展開もまじえた全盛期の大規模作品にむしろ接近している。ピアノの粒立った音、パラパラ胡麻をまくようにこなれた技巧が素晴らしく、主張せずソリストを引き立てている。フランス的な品も感じさせながら曲自体に内在する中欧古典志向を汲んだ芯の通った演奏もなかなか。短い曲だがもともとルーセルは長い曲はオペラにしかせず、まとまった簡潔な作風である。その短さの中で言うことを整理し尽くした感じはせず、わかりにくさも残る。そのぶん噛みごたえはある。和声を除けばフランクとは対極にあろう。

録音はこんなものか。
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ミヨー:ブラジルのソーダード(思い出)

2016年12月24日 | Weblog
ルビンシュタイン(P)(meloclassic)1948/10/13live 放送・CD

これは40年代録音なので音は良い方と言っていい。何でも弾いてるルービンシュタインなので何が出てきても驚かないし、それが南の楽天的音楽や東の舞踏的音楽であればミスだの雑だの問題にならない有無を言わせぬ血の勢いで聴かせてしまう。だがそれにしてはこの曲は「現代的に」聴かせている。とても抽象的だ。ミヨーのスコアの示す技巧的な側面を突いたかのような演奏で驚いた。そこから楽天的要素を抜き出して思い出に浸らせる気はない。まるでシェーンベルクのようなミヨーである。傑作だとは思うがむしろ素直な「春」「家事のミューズ」みたいな後期作品に本領があると思う私には、まだ前衛とみなされていたミヨーが、オネゲルの嫌うブヨブヨした作曲家ではなかったことを裏付けるメカニカルな技巧も兼ね備え、ちゃんと研究し発想に結実させることもできていたのだと解釈した。妄想上ルビンシュタインは恐らく顔色一つ変えずにただ一度スコアを舐めただけで弾き抜いたのだと思うが、それが面白くなったかどうかは別として、作曲家本人も気づかないくらいの楽譜の本質を衝いた記録として特筆できる。くれぐれもブラジルっぽくはない。
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ラヴェル:序奏とアレグロ

2016年12月24日 | Weblog
エネスコ、ジョルジュ・アレ(Vn)ガストン・マルケジーニ(Vc)ピエール・ジャメ(Hrp)ガストン・クリュネル(fl)ウリス・ドレクリューズ(cl)他(meloclassic)1951/3/1パリlive放送・CD

エネスコはデュオソナタ初演など請け負い学生時分からラヴェルと交流があった。それに留まらず同時代音楽に積極的で、けしてバッハ主義者ではない(演奏スタイルからして当然だけれども)。これは指揮だけではなく音楽院ホールの公衆の面前で直接弾いているということで年齢からは珍しく思う。この時期にしてはノイズが多く音が悪いのは仕方ない。編成は通常通り室内楽であるが(これは作曲家が何を書こうと依頼どおりハープを際立たせるためにはオケ編成では駄目だろう)さすが大先生エネスコだけあってお歴々が顔を揃えており、父ジャメのtimpaniのSP起こしからは聴き取れない腕をふるっているのは聞き所。盟友ラスキーヌの豪腕とは違う美観がある。ここに記載は無いがSPでジャメ、クリュネルと組んでいたブランパインがヴィオラを担っている可能性がある。ドレクリューズも名を連ねている。

そこはそこなんだが、解釈を支配しているのは間違いなくエネスコで、パヴァーヌの指揮録音など思わせる古色蒼然とした情緒てんめんな揺れ具合には仰天する。これがチャイコフスキーでは安定していたエネスコの指揮なのか?やはり同級生には思い入れてしまうのか?自身の音はわりと弱く、この時期なりの引きのスタイル。音色も煽らない。というか煽れないのかもしれない。とにかくこれは50年代のものとは思えない情緒過剰な演奏で、好き者にはたまらない30年代的録音であり、余計な音源がたくさん併録された二枚組ではあるが復刻自体素晴らしいことであった。エネスコのラヴェル、それだけでも価値はある。エネスコがルーマニア初演を担ったというショスタコ七番はどうだったのだろう。おそらく固いものだったと想像する。この録音は特別なパリの空気によるものなのだろう。
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フランク:ヴァイオリン・ソナタ

2016年12月24日 | Weblog
マカノヴィツキー(Vn)ノエル・リー(P)(meloclassic)1963/2/13ハンブルグ放送用スタジオセッション録音・CD

少しミルシテインを思わせる彩もあるが、落ち着いた澄んだ音が特徴的。ヴァイオリニストには珍しくないが子供期にすでにデビューしロシア系をはじめとした各楽派をまなんだようで、凝り固まったところのない比較的新しい人なので録音の良いのも含めて、雑味なくクラシックに疎い人に勧めても安心できる系統の演奏。いかにもフランス的な美学も感じられる点は伴奏のノエル・リーとの対話によるものか、リーについては言うまでもあるまい。このコンビの音は合っている。力づくであったり、旋律と響きの顕な曲にあって情緒をおおいにアピールすることも可能な曲である以上プロは、他者との差異を示すことはむしろ難しい。技巧的フレーズが無いわりにモダンさの表面にある和声の上において、音色変化をどう付けるか、「付けないのか」。このソリストは正直音色変化は付けないタイプで、しかもテンポ変化はかなり穏やかというかおおまかにはインテンポ感があるから安定感と裏腹のつまらなさを感じる向きもあるかもしれない。一楽章展開部でのリーとのアンサンブルはしかし、素晴らしい組物になっていて、これはヴァイオリンソナタではなくヴァイオリンとピアノのためのソナタなのか、と思わせる書法の的確な再現をなしている。二楽章は特有のゆったりとした歌が、揺らぐピアノの上で雄大な旋律の波を起こし、チャイコフスキーの憂愁を思い出させる点もある。この楽章つまんない、と流すのではなくフランクの形式主義をしっかり汲んだ優れた楽章となっている。その深い表現のためかそのまんまでも十分軽やかがゆえのコントラストをつけられる三楽章にすんなり入ってしまう。変わらぬ音色、安定感のサラサラはしかし、メロディのロマンティック過ぎる曲には悪くない。「偉大な芸術家の思い出」の長大な第二部変奏曲群を思い起こしていただきたい。まるきりあの感じがある(ここでは良い意味で使わせてもらう(たいてい私はあの曲を悪い意味で使う))。近視眼的な変化は一切つかない。終盤ほんのわずかにタメが入るだけだ。「若い」演奏ぶりとも言えるがこれはこれでいい。曲が若いのだから。清々しく若々しい。この曲はこのくらいがいい。
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フォーレ:チェロ・ソナタ第2番

2016年12月23日 | Weblog
ジャンドロン(Vc)フランセ(P)(meloclassic)1962/2/13フランクフルト放送セッション・CD

PHILIPS録音がつまらなかったので躊躇していたら廃盤になってしまった。二年前の廉価盤にもかかわらず国内流通はおろか海外で相対的にとんでもないプレミアがつき、まだマシなものを泣く泣く買ったらすぐ着いた。日本国内の業者から普通の発送だった。こういうのは二度目。よくある手にかかったわけである(高い海外送料手数料はまるまる上乗せになったのだ)。このレーベルは権利問題からか廃盤や組み合わせ替えがあるものの、長い目で見れば再販されがちだそうなので、私のような馬鹿な目にあわないよう皆様お気をつけて。

この曲だけが目当てというのは馬鹿な金を払ったものだが、曲自体を久しぶりに聴いたので比較して印象を語ることは難しいものの、まるきり違うのである。今回は感銘を受けてしまった。スタジオ録音とはいえ放送目的のおそらく一発録り、それにしては技術的瑕疵は皆無でカラヤンかというくらいの精度。一縷の隙もないのはフランセのピアノでは当たり前だがジャンドロンの技術、それに音色のあやめいたさまも好みである。フォーレのような「旋律音楽」はドラマティックに振れるやり方が常套手段になりがちなところ、これはまた品が良く、アンサンブルも余裕からかピリピリせず、全体として優美である。録音も素晴らしいステレオだ。正規音源より良いかもしれない。おそらく復刻されるだろう。
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☆RVW「野をわたり」全訳解説など

2016年12月23日 | ヴォーン・ウィリアムズ
参考:本体サイト
画像:A.E.ハウスマン

~A.E.ハウスマンの最初の詩集「シュロップシャーの若者」は1896年に出版された。それは作曲家たちにとって大きな贈り物となった。ハウスマンの本業は学者であり、その詩はギリシャのアンソロジーにみられる、ある種の見事な質を保っている。失われた若さ、失われた愛、失われた古里への深いノスタルジーが混ざり合った感情だ。彼は地名の組み合わせの絶妙をもって読者自身の経験と共通する「失われた地」を創り上げている。1922年に二冊目の「最後の詩集」が出版されると、作曲家達は今一度自身の音楽にぴったりの文節を持つ詩文を見出した。ハウスマン自身は音楽を嫌い、彼とRVWは初期の歌曲集「ウェンロックの崖にて」の一つの歌*をめぐりいくつかの激しい言葉を交わしていた。これはテノールと弦楽四重奏、ピアノのために書かれたものである。

*訳注:27番「私のチームは耕しているか」のサッカーにかんするくだりをRVWが削除した(「この一節が純粋に気に入らなかった」)ことに関するトラブルを言っていると思われる。男らしさ(ゲイだったともいわれる)とニヒリスティックな感覚を持ったハウスマン自身、RVWの美しく感傷的な音楽に批判的だったようだ。故三浦淳史氏も同調しバタワースの歌曲のほうを評価している。

この二番目の歌曲集「野をわたり」でRVWはソロの歌唱とソロ・ヴァイオリンを用いている。8つの歌の最初と最後は哀歌ふうで、「野をわたり」の歌は「ウェンロックの崖にて」の「私のチームは耕しているか」の幽霊の声の、もう一つのバリエーションとなっている。「半月~」と「ため息~」はいずれも失われたことを受け容れる感情を示し、小さな「朝に」は今ふたたび初期のハウスマン歌曲集の小さく冷笑的なエピソード「ああ僕が君と恋に落ちていたとき」のパラレルになっている。「さよなら」は同じムードがあり、親密な少女の出現
とその後の後退、男の敗北の流れに、ヴァイオリンによる驚くべき彩が添えられている。「妖精の鐘」の舞曲にも同様のものがきかれる。

この歌曲集はジョアン・エルウェスとマリー・ウィルソンによって初演された。ロンドンのグロトリアン・ホールで1927年10月24日のことである。しかし1954年まで出版されずじまいになっていた。(ウルスラ・ヴォーン・ウィリアムズ、MHS盤ライナー)

~ハウスマンもRVWも思索のすえに無神論に至った点は共通している。しかし起伏はあるにせよ比較的円満な人生を結果としておくることのできたむくつけき大男RVWに対し、10余りしか離れていないハウスマンは70台で早くも老衰死した。RVWの美しすぎる「ウェンロック」を嫌う人の感覚もわかる。しかし素直に詩文に感動し、しかし独自のポリシーを堅持しつつ歌曲につけたRVWの純粋な作曲家としての態度、その作品に溢れるRVWならではの美観には決して浅い思いつきで書いたものではない魅力があり、これはハウスマンの詩につけた歌というより、ハウスマンの詩による変奏曲なのである。そしてここに私が書く訳文も、私による更なる変奏曲になっているということをご理解いただきたい。翻訳とはそういうものだ。

RVW「野をわたり」 8つのハウスマンの歌、歌唱とヴァイオリンのための

以下、曲順に従ったてきとう訳詩

1.(最後の詩集、序)

我らもう森へ行くまい、
月桂樹は全て刈られた、
ミューズたちがかつて頭上に飾った月桂樹の枝は
もはや木陰に無い、
年月が日を過ぎ、
すぐに夕べの闇が来るだろう。
全ての月桂樹は刈られてしまい、
我らもう森へ行くまい、
ああもう、もう行くまい
生い茂る森へ遠く、
高い月桂樹のむら成す森へ
そして月桂樹の枝なす木陰へはもう。

2.(シュロップシャーの若者、26番)

野をわたり我ら来たりし
ひととせの昔 恋人と私は、
ポプラが牧場の石垣の上で
ひとりつぶやいていた。
「ああ、誰がキスして去っていくのだろう?
村の恋人、その彼女、
二人の恋人は結婚するようだ、
そして時が彼らをベッドに送るだろう
でも彼女は土の上に横たわり、
彼は他の恋人のかたわらに。」

そしてたしかに木の下を
他の恋人が私と共に歩いている、
そして頭上にポプラが揺れる
銀の葉ずれから雨音をしたたらせ、
そして私はその動きから何も読み取ることができない、
でも今たぶん彼女に話しかけているのだ、
そして彼女にははっきり理解できる
彼らは間もない時のことを
私がクローバーに覆われて眠るであろうとき、
そして彼女が他の若者の傍らに眠るであろうときのことを。

3.(最後の詩集、26番)

半月が西へ低くかたむく、いとしい人、
そして風が雨を運んでくる、
そして僕らは別れて眠る、いとしい人、
そして二人の間に海々がよこたわる。
雨が降っているかどうかすらわからない、いとしい人、
君の眠っている土地に、
そしてああ、君の寝息がきこえる、いとしい人、
君は知らない、私と同じように。

4.(最後の詩集、23番)

朝に、朝に、
楽しい干草の大地で、
ああ 彼らは互いに見つめあった
日の光さす中。
青く、銀色の朝に
干草の山に彼らは横たわり、
ああ、互いに見つめあった
そして目をそらした。

5.(最後の詩集、27番)

ため息、草ぐさを揺らす
汝が決して起き上がらぬ地の
ため息つくかどうかも知らぬ、
わたりゆく風なのだ。
ダイヤモンドの涙、飾りつける
草原の低い汝の塚を、
朝の涙なのだ、
すすり泣く、でも汝のためではない。

6.さよなら
(シュロップシャーの若者、5番)

おお、ごらん何とたくさんの金のカップの花、
野や小径に咲いていることか、
たんぽぽが時をつげる
二度とは繰り返されない。
おお、僕は原っぱへお供していいかい
そして綺麗な花をたくさんつんであげても?
「腕を組んでもよろしいでしょう」
「ええ、あなた、ええ。」

ああ、春は若い二人のために送られてきた
「今こそ血が黄金に輝き流れる、
そして若い二人が楽しむ時
世界が年老いる前に。
今日咲く花は明日咲くかもしれない
でも新しいものほどよくはない。
僕が腕を回したとき言ってくれ。
「ほんと、あなた、ほんと。」

こういう若者たちもいる、「口にするのも恥ずかしいけれど
盗むためだけに寄ってくる者、
そしてひとたび彼らが花を摘み去ってしまうと
「捨てることなどかんたんだ。
そうだ君の心を僕みたいな男のためにとっておけ
そして信頼できない輩から安全であれ。
僕の愛はほんもの、すべて君のために。
「たぶんね、あなた、たぶんね。」

おお、僕の目を見て、それでも疑うかい?
なぜ、「町から1マイル。
あたり一面、何て草ぐさが青あおとしていること!
腰をおろしてもよろしいですよね。
ああ、人生よ、ただの一輪の花にすぎないのか?
なぜ真実の恋人たちがため息をつかなければならない?
やさしくね、憐れんで、僕だけの、僕の美しい、・・・
「さよなら、あなた、さよなら。」

7.(最後の詩集、41番)

若者たちが労働を終え家に帰ったころ
クリーのふもとのアブドンで、
一人の男が近所の人を呼んだ
そして二人が私を呼びに来たものだ。
そして槍の光なすところ
草原を横切っていき、
ダンスにあわせて、
僕はフルートを取り吹き鳴らした。

僕らの喜びは他愛ないもの、
でも、おお、それで僕らは満足だった、
楽器を吹き鳴らす若者たち、
調べに聴き入る老人たち、
そして演奏を続ける僕
木々から塔から山から、
綾なす光をはっしつつ、
太陽はフルートに眠りつく。

若者は恋人のほうへ
日焼けした額を向けたものだ、
そしてトムはナンシーとカップルになり
そしてディックはファンと踊ったものだ、
少女はまなこを上げて
彼のまなこを、そして黙り込んだものだ、
ダンスは楽しく進んだ
夕べにフルートにあわせて。

ウェンロックの崖はアンバー色、
そして輝きはアブドン町に、
そしてその間に暖かく眠る
芝のゆるやかなグリーン・マイル、
草やクローバーからやがて
最後の光が消え去ったものだ、
そしてイングランドの上に
影が張り出してゆく。
張り出す影は拡がって
僕はフルートを取り奏でる、
来いよ、若者、ダンスを学べ、
今日の調べをたたえるのだ。
明日悲しみは更に増える、
僕らは早く去らなければならない、
うたは空へゆけ、
そして僕は大地をゆく。

8.(シュロップシャーの若者、54番)

僕の心は悲しみ思う
僕の持った黄金の友達のために
たくさんの薔薇の唇の乙女のために
そしてたくさんの足取り軽い若者のために。

跳び越えるには広すぎる小川のそばに
足取り軽い少年たちが臥す、
薔薇の唇の少女たちが眠る
薔薇の色失せた野の上で。
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☆RVW「ウェンロックの崖にて」全文試訳

2016年12月23日 | ヴォーン・ウィリアムズ
参考:本体サイト
画像:Bredon Hill

RVW「ウェンロックの崖にて」 ハウスマン「シュロップシャーの若者」より、歌唱と弦楽四重奏、ピアノのための

以下、曲順に従ったてきとう訳詩

1.(31)
ウェンロックの崖にて森がざわめく、
森の羊毛はレーキンの丘に波うたされる
強風、若木を揺さぶり
そしてセヴァンの川面に葉が雪と散る

雑木林や崖地の森をこのように風が吹き抜けた
ユリコンの町のありし時のように、
これこそ昔の風は昔の怒りのままに吹き、
しかしそれから他の森を打ったのだった

そのとき、私の時よりずっと昔、ローマ人が
遥けき波うつ森を見つめていたものだ、
血、イギリスの農夫を暖めたもの、
彼を傷つける思い、それがそこにあった

そこだ、森を騒ぎ吹き抜ける風のように、
彼の中から命の強風が吹き上がった、
人間の木はけして穏やかではない、
その時はローマ人、今は私。

強風、若木を揺さぶり、
とても強く吹く、だがすぐ吹き去ってゆくだろう、
今日ではローマ人と彼の苦しみは
ユリコンの下の灰。

2.(32)
遠くから、夜から朝から
そして君、十二方位に風が吹く空から、
生命の素が私を編むために
ここに吹き付ける、ここに私はある。

今・・・一息私は留まる
まだ散り散りにはならない・・・
早く私の手をとり告げるのだ
君が心に持っていることを。

今語れ、私は答えよう、
どうやって君を助けるかについてだ、言うのだ
風の十二方位へ向け
私が終わりなき道を行く前に。

3.(27)

「私のチームは耕しているか、
私がかつてそうしたように
馬具の鳴るのを聞いたように
私が生きている男だったときに?」

ああ、馬はぐんぐんと進み、
馬具は今も鳴っている、
何も変わってはいない、
君が自分の耕した地の底に横たわった以外は

(訳注:ここでRVWはサッカーにかんする一節を削除した)

「私の彼女は幸せか、
ああ離れ難かったのだよ、
泣くのに疲れてしまってはいないか
夜横になるときに?」

ああ、彼女は気軽に寝ている。
泣くために横になることはない、
君の彼女はとても満ち足りている。
安らかに、若者よ、そして眠れ。

「私の友は元気か、
今私は痩せさらばえている。
彼は眠るのにいい寝床を、
私のものよりいい寝床を見つけたか?」

そうだ若者、そうだ若者、私は安らかに横になる、
若者たちが望むように横になる、
死んだ男の愛した女を楽しませる、
誰のだなんて野暮は聞くな。

4.(18)

ああ僕が君に恋していたとき、
清廉潔白勇敢で。
名声は何マイルにも拡がって、
僕が何てうまくやったのだろうと羨望の目が集まって

そして今幻想は去った、
何も残っちゃいない、
何マイルもの範囲のみんながまたも言うのだ、
僕はただの僕でしかないのにって

5.(21)ブリードゥンの丘

ブリードゥンの夏の日に
鐘が澄みやかに響く、
両方の州に響き渡り
尖塔から、遠くから近くから、
幸せなノイズが聞こえる。

日曜の朝には
彼女と僕は寝転んで、
そして色とりどりの州地を眺め、
そして空高く雲雀の声を聞いた
僕らの頭上を舞う。

鐘が彼女を呼んで鳴ったっけ
谷の彼方から、
「来たれ教会へ全ての善き者たちよ、
善き者たちよ、来て祈れ。」
でも彼女はここに座りっぱなしで。

それで僕は振り返って答えたんだ
弾けるタイムの葉の間から
「ああ、僕らの婚礼のときに鳴れよ、
そして僕らはチャイムを聞く、
そしていつか教会へ行こう。

でもクリスマスの雪が
ブリードゥンの丘の頂を覆ったとき、
僕の恋人はさっさと立ち上がった
そして知らないところへこっそり行った
そして一人で教会へ行った。

彼らはただ一つの鐘しか鳴らさなかった、
花婿はどこにも見えなかった、
葬列があとにつづいた、
そしてそれから教会へ彼女は行った、
そして僕を待ってはくれない。

鐘がブリードゥンに鳴り響くとき、
まだ尖塔がうなっている
「来たれ教会へ全ての善き者たちよ、
ああ、何てうるさい鐘だ、ちくしょう、
僕は君を聞く、行くさ、行くさ。

6.(50)

(訳注:序の部分が削除)

川の源の谷あいで、
オニーとティームとクランのほとりで、
安らかに生活する人々の国、
太陽のもと一番静かな場所。

我々はまだ軽くすべき悲しみを抱いて、
いつも楽しいというわけにもいかなかった、
そして若者はナイトンでも苦しみを知っていた
私がナイトンの若者だったころ。

テムズが下に流れる橋のあたりで
ロンドンで、醜く創り上げられた町、
想像に難くないことは確か
もし悲しみが人にまだあるとしても

若者が年をとるにつれ
こうむる苦しみも増してゆくとしたら、
悲しみを肩に背負って運んでいるのだ
それはずっと昔に荷なっていたもの。

どこで降ろして休むことができるのか
喜んで降ろしたいこの荷物?
テムズでもティームでもない川で、
ロンドンでもナイトンでもない町で、

そこはナイトンよりずっと遠いところ、
クルンより静かな場所、
最後の審判の日、雷の落ちるとき軽くなる、
だがそれは彼には問題ではないこと。

(以上てきとう訳)
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フランク:弦楽四重奏曲

2016年12月22日 | Weblog
ロンドン四重奏団(columbia/m&a)1928/11・CD

よくレストアされ上手くノイズ除去されている。演奏は良くも悪くも安定。強奏部の音色のバラつきに時代を感じさせるところは無くはないが、20年代録音としては非常に安定しており、現代の耳からして違和感がない。3楽章までは正直引っかかりが無かったが、4楽章がダイナミックで勢いがあり聴き応えがある。この団体もメンバーチェンジが激しいが初期はサモンズが弾いていた。この頃でもさかんに演奏会がおこなわれ日本人留学生も聴きに来て、当時の現代室内楽に驚嘆した旨の記録があった(と記憶している)。フランクのカルテットは魅力的ではあるが長過ぎる面は否めない。聞く者にも集中力が要求されることを思うと、演奏レベルの安定感をもって楽曲そのものへの理解を深めることができる意味では、現代音楽演奏者としての資格はおおいにあったと言えるだろう。
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☆ディーリアス:人生のミサ(1904-5)

2016年12月22日 | Weblog
○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、ロンドン・フィルハーモニック合唱団他(CBS)1952/12モノラル

無宗教を貫き終生リアリストであったディーリアスの、それでも魂を揺り動かすようなこの合唱曲は、平和な時代を生きるわれわれにも深い感動をあたえてくれる。ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」の抜粋を用いた、2部構成全11曲の大曲だ。ドイツの指揮者カッシラーに献呈され、抜粋もカッシラーによって選ばれている。通常英語版を使用するが、元はドイツ語版である(ディーリアスは何故かドイツで人気があった)。ソプラノ、アルト、テノール、バリトン全ての独唱者を必要とするが、決して独唱主導にはならず合唱と管弦楽と巧みに絡み合って、ディーリアスの鮮やかな手腕が冴える。支援者であり紹介者であり、それ以上に「ファン」であったビーチャムは、その機敏な棒と鋭くも暖かい音色によって輪郭の明瞭なディーリアス像を描き出す。その恣意性に対して好みはあろうが、優れた解釈者であることは間違い無い。このような合唱曲でも、歌劇を意識した如きドイツ風構築性を感じるところにビーチャム・ディーリアスの特徴が伺え、至極自然に楽しむことが出来る。しかし・・・ディーリアスの、繊細な音の綴れ織りは、先ずもって古いマイクでは拾いきれない。ビーチャムのモノラル旧録は、それゆえ推薦するには躊躇をおぼえる。流麗な曲作り、雑音の奥に聞こえる美の豊潤さは、意識して聴けばそれなりに楽しめるものではあるけれども。ビーチャムのモノラル録音は作曲家存命期からかなりの量が存在しているが、最近相次いで復刻され店頭を賑わしている(NAXOS)。でももしビーチャムのディーリアス未聴なら、先ずEMIのステレオ(ビーチャムの寿命はステレオ時代にギリギリ間に合ったのだ)盤から攻めてほしいとおもう。不用意なマニア盤への接近は悲劇的な結末を呼ぶ。と書いておいてなんだが、この大曲はモノラル録音しか残っていない・・・。ごめんなさい。壮麗で感動的な冒頭。1曲めは非常に印象的。ダイナミックな音楽で、マーラーの「千人の交響曲」を思わせるが、ディーリアスだけに野暮に感情を露にすることはない。特有のマニアックな音形が前面に立たないのでこれまた聴きやすい。ビーチャムは速めのテンポで音塊の俊敏な流れを作り、同時に威厳に満ちた美しい音響を紡ぎ出してゆく。集中力の高い好演だ。歌手陣も負けてはいない。管弦楽をバックにした合唱の扱いも老猾だ。録音の問題で音像がぼやけ気味なのが気になるが、進むにつれ安心して聴けるようになる。豊潤な楽想、隅々の創意が四方から畳み掛けてくるさまは「千人」以上に圧倒的で、兎に角この一曲め、全曲のききどころと言ってもいいだろう。3曲め、茫洋とし捕らえどころの無い霧の中で、微妙な不協和音が妖しい夢幻味を醸し出す。不思議な聴感だ。ディーリアス的個性は少し薄く、 ”子供の合唱”(にきこえる)が入るところなど、矢張り「千人」の第二部後半を思わせるが、その雰囲気は天国的というより異界的といったほうがいいかもしれない。さらに進むにつれ、楽想が沈潜しやや印象が薄まってゆく。反じて後半曲のほうがよりディーリアスらしい静謐な音風景を描きだしているとも言える。浸りきる音楽。その方がしっくりくると感じる向きもあるだろう。第二部の嚆矢では再び壮大なオラトリオが戻るがそれも長くは続かずに、やがてビーチャムもさりげなく流れを止め、大曲は終わる。同曲、無宗教による「レクイエム」とともに合唱曲における代表作となっており、グローヴス(EMI)やデル・マーなど新しい録音で一聴されたい。,
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フランク:弦楽四重奏曲

2016年12月22日 | Weblog
インターナショナル四重奏団(HMV)SP

ラヴェルや六人組と同時期に同レーベル専属のように録音を行っていた団体で、かなりの手練れである。同時期に録音を残したカルテットとしては非常に円熟しており(スペンサーダイクなんて屁だ)、ノイズやSP特有の痩せた音に耐えられる方なら技術的に全く問題の無い、かつ音楽的にも充実した聴後感を得られるだろう。ロンドンやレーヴェングート等後発と比肩しうる完成度。ラヴェル録音についてはオーストリーのガリミールを診たのと同じくこちらも監修記載があり、フランス音楽の精妙な響きと微細な変化を再現する腕は既に確認できる。そして曲によりスタイルも変えてくる。循環主題を用いながら古典的な4楽章制をとり、型式上の整合性を重視したところもあるのかもしれないが50分もの時間がかかる大曲で普通は途中で飽きるものを、こんな音質なのに、まずはフランクのソナタでも発揮されたメロディメイカーとしての能力が全面的に発揮されているところをしっかりとらえ、主として前期ロマン派の楽曲構造からの研究成果をそのものと受け止めて「聴こえるように」作りこみ(メロディ重視の団体・録音にはこれができない)、さらにこれが重要だがフランクを近代フランス音楽の雄として特徴づける和声的な進歩「揺らぎ」をきちんと聴かせてくる。経過的用法ゆえ過度にもならずカルテット形態の構造的面白味の障壁になっていない。フランクとフォーレは急進はしなかったが個性の内側に「フランスの作曲家としての」和声要素を配置した作曲家と勝手に思っているのだけれど、この悪音ですらその展開の新鮮さに耳をうばわれる。この曲で飽きない者はいないと思われる。だがインターナショナル四重奏団は全方位的な完成度によって飽きさせない。少なくとも私はそう思った。ところでフランクとブルックナーもなぜか私の中では同じ位置にいるんだよなあ。
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バックス:交響詩「ティンタジェル」

2016年12月21日 | Weblog
グーセンス指揮新交響楽団(HMV/dutton)1928/5/17,23・CD

グーセンスは戦前戦後アメリカでのオケトレーナーなどの活躍があまりに有名だが(コープランドに代表作「庶民のためのファンファーレ」を依頼し太平洋戦争開戦に際して兵士の応援とした)イギリス音楽にも特別の思い入れを感じる。これはダットンがレストアし過ぎて堅い音色過度な残響によりSP復刻の悪例を示しているが、グーセンスのイメージに無い色彩性や穏やかなドラマの演出ぶりがストコフスキーなどと違う、音詩への的確な理解ぶりをアピールしており、半音を行き来する揺れっぷりはまさにディーリアスのようにきこえ、バックスの代表作としての魅力をよく引き出している。
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ドヴォルザーク:スケルツォ・カプリチオーソ

2016年12月21日 | Weblog
カイルベルト指揮プラハ・ドイツ・フィル(meloclassic)1945/1/8放送セッション録音(プラハ)・CD

派手な中プロ向きの中編だが録音がモノラルでそれほどよくないせいもあって、音楽的に抽象化されたしっかりした音楽に聴こえる。カイルベルトの芸風もあるのだろう。意外と組み合わせやすく耳なじみも聴き映えもするだけあって新しい録音も多いのだが、それにくらべ地味ではあるもののモーツァルトと同時に録音されているせいもあってか古典音楽のようで、印象は真面目だ。スケルツォ風でも狂詩曲的でもないが、私はしっかり聴けた。
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ディーリアス:カーニバルに(ポルカ)

2016年12月21日 | Weblog
パーキン(P)(unicorn)1983版・CD

1885年のピアノ小品で無邪気なポルカそのもの。それ以上でもそれ以下でもない、軽い作品。演奏評不可。
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ディーリアス:高い丘の歌

2016年12月21日 | Weblog
フェンビー指揮RPO、アンブロシアン・シンガーズ(unicorn)1984版・CD

ディーリアスの作品は単純→複雑→単純という流れがあると理解している。最後の「単純」は身の自由が利かずフェンビーらの手を借りたせいだ。「複雑」期においても右腕としてのイエルカ(ジェルカ)夫人のテクストや解釈者以上の存在だったビーチャムらの助力なくして成り立たなかったと思っている。この作品は最初の単純から複雑への過渡期で、単純期にみられた前時代音楽や異国の音楽からの影響、ロマン派的な「つまらなさ」は払しょくされ、旋律の抒情性を維持しつつ、半音階を織り交ぜた(しかしまだ濫用はしない)ドビュッシーとはまったく隔絶した「雰囲気音楽」に移行したものだ。和声的影響もほぼ無い、もしくはほんの要素としてしか取り入れられないからそれはむしろドビュッシーとは言えない(ドビュッシーはディーリアス評を一言だけ詩的にのべてはいるが和声的な面での「落ち着き」を皮肉ったようにも取れる)。複雑な時期の思索的雰囲気はまだなく、素直な曲想が多いものの、連綿とつづく風景に、これが凄いのだがまったく飽きを感じさせずに大規模交響詩として、ほの明るい表現に終始する。ちっぽけな「人間」を象徴する無歌詞合唱はフェンビーにおいてはかなりそくっと、控えめに入っていて、後年的な自然そのものを描いたようには聴こえない抽象音楽の起伏に寄り添う。フェンビーは手慣れたもので初演をになったオケも、この輝かしい音を前提に演奏されてきた曲なのだなといった風。きらめくひびきにレスピーギの「ローマの噴水」終曲の影響を感じる方もいると思うが作曲年は先んじている。音の少ない心象的表現が高音のピチカートや打楽器など剥き出しでとつとつと現れるところ、レスピーギとともにホルストを思わせる、これは親交あったヴォーン・ウィリアムズの「理念」にも通じる表現で、ディーリアスなんてドイツで名を挙げてグレ・シュール・ロアンで一生を終えた外国系の人じゃないか、と言う人はもっと聴いた方がいい。これはイギリス的な音楽への「布石」である(言うまでもなく「惑星」より前の作品)。
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ラヴェル:連作歌曲集「博物誌」

2016年12月20日 | Weblog
バルビエ(msp)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1976/10/6放送 live

万華鏡のように作曲技巧を尽くした伴奏をもつ抒情詩で、曲間の性格分けは楽想においても書法においてもあまりに明確である。表出力の強さはルナールにしては大袈裟と言わざるを得ず、俳句をオペラに翻案したような不格好さはある。簡潔さが売りの原作をここまで作り込んでしまうか、想像力をスポイルするくらい完璧な描写を持ち込んでしまうか、しかしたんに歌としての魅力はどれも途方もなく大きくて、それと意識せず純粋な歌曲だけのものと楽しむべきなのは何もラヴェルだけの現象ではない(マーラーにおける李白はどうなってしまうのか)。「かわせみ」にかいまみえる沈潜はドビュッシーあるいはそれ以前のフランス音楽へのオマージュをおもわせずにおれないが、響きや単純性にヴォーン・ウィリアムズの自然主義を想起させられて、よく考えたらラヴェルに教授されたのはこの曲の直後であった。演奏はロザンタールによくぞこの明晰かつ情感ある録音が残っていてくれたものだ、そしてソリストの歌唱も表情豊かであると同時に適度な品格を保っており、なかなかの名演となっている。
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