湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ラフマニノフ:交響詩「死の島」

2016年12月14日 | Weblog
ミトロプーロス指揮ミネアポリス交響楽団(NICKSONほか)CD

2番シンフォニーの録音もSP時代にしては勢いも色彩感も技術的にも素晴らしいのだが、これはラフマニノフがベックリンを即物的に音化したような曇ったロマン性を発揮した曲でありながら、ミトロプーロスの手際良い捌きにより臭みの無い西欧的ですらある演奏に仕上がっている。ノイズは致し方ないが過不足ない聴感である。いかにも同時代ロシアの、ワグナーやリストなど背負った上での重たい音楽を、チャイコフスキー流儀で取りまとめたところは、そう強調されることはないが、佳演とは言えそうだ。
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ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

2016年12月14日 | Weblog
ブライロフスキー(P)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1945/10/27live

流石クーセヴィツキーと言わざるを得ない。録音状態の悪さを差っ引いても、ホルダとは違う。語り口の重厚さ、うねるようなロマンチシズム、溺れないテンポ、とくに一楽章はブライロフスキーの物語る口調がまた途轍もなく素晴らしく、クーセヴィツキーの情念と見事に融合している。二楽章はホルダ盤同様弱音表現に食い足りなさはあるし、三楽章は硬い音色で雄弁に突き進めるのに対して、クーセヴィツキーは背後に引っ込んで(マイク位置のせいかもしれない)言うなればベートーヴェン的な構成感のもとに客観的におさめているが、例のメロディで(録音のせいで音色が鄙びているのは惜しい)弦の見せ所をしっかり打ち出すなど要所要所では強靭に応えている。二楽章のノイズは部分的にきついが、それ以外SLSがなぜかリマスタリングを上手にやったせいか聴きやすい盤になっており、終盤ソリストとオケの作り上げる盛り上がりはインパクトがあり、緩徐主題再現前のブライロフスキーの一打、絶妙なタイミングには感銘を受けた。これは盛大な客席反応も頷ける。

クーセヴィツキーのラフマニノフというと交響曲が二曲きりで、むかし別人でPコンも出ていたかと思うが基本コンチェルトは聴かないので看過してしまった。記録上ユージン・リストとの録音が現存するはずとのこと。しかしキエフの大ピアニストとのこの組み合わせ以上に息のあったものでは恐らくないだろう。ブライロフスキーは手の大きさはどうなんだろうか、冒頭鐘の模倣を僅かにずらして取るのはホルダ盤より目立たないもののここでも聴き取れ、ラフマニノフに見出されたにしては「個性的」過ぎて、ショパン弾きとしての売り方しかされなかった理由なのかもしれない。
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☆ラヴェル:マ・メール・ロアより2.親指小僧、3.パゴダの女王レドロネット、5.妖精の園

2016年12月14日 | ラヴェル
○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(PARLOPHONE)SP

EMIで終曲のみLP化しているのは別途書いた。この終曲はしっとりした演奏になっているがそこまでの2曲は割合と無骨というか余り棒慣れした音になっていないのが意外といえば意外である。往時のフランスオケのレベルが知れるといえばそれまでだが、いい面では同時代の他録と同様の微妙なリリシズムをたたえた音が美しい、悪い面では演奏の整え方が雑である。コッポラのような録音専門指揮者のものとは完全に異質なため演奏の完成度うんぬんを指摘すべきではないかもしれないが、ちょっとぎごちなかった。とはいえ「パゴダの女王」の表現にかんしていえば銅鑼等の響きを効果的に使い、如何にも「中国の音楽」といったものを描き出していて、ああ、こういうふうにやるのか、と納得させるものがあった。譜面に書いてあるように演奏するのではない、これは「中国の音楽」をどうやって表現するのか、単にラヴェルが中華素材をもとにオリエンタルな世界を創出したものではなく、これは「中国の音楽なのだ」という意識が強く感じられる。印象的だった。○。
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☆ラフマニノフ:交響曲第2番

2016年12月13日 | ラフマニノフ
○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(CAPITOL)

カット版だが大変に立派な演奏である。がっしりしたフォルムを保ち決して細かくは揺らさず、やや引いたテンポのうえにひたすら雄渾な筆致でロマンを描きあげてゆく。その名演ぶりの大半はピッツバーグの分厚い弦セクの力によるものだろう。決して技巧にすぐれた弦のオケではないのに、しかしここではリズミカルなアンサンブルの非常にしっかり構じられた演奏を繰り広げ、非常に憧れのこもった音でハリウッド映画音楽的な音色をきらめかせながら、しかしスタインバーグの要求する強く男らしい表現の中にそのロマン性を押し込めることにより、純音楽的表現と内面的感情の素晴らしくバランスのとれた格調の高い歌がつづられてゆく。ゆめゆめ演歌などと思わせない。よくあるロシアふうのお祭り騒ぎも嘆き節もなく、テンポ設定は巨視的にしかいじられず、1楽章では遅く客観的と感じたり終楽章では逆に即物主義的と感じるほど単純なアッチェルをかけ続けたり、そこがちょっと気になったので◎にはしなかったのだが、これらがあるからこそ個性的な演奏たりえているとも言える。ホーレンシュタインのやり方に似ていてもあの明らかに音色を犠牲にしてまで整えるドイツ式の表現手法とは違う、ロマンティックな音、アーティキュレーション付けを多用はしないが効果的に使って色めいた伽藍を打ち立てている。素晴らしい。○。決して巧いオケではないのだが、それでも素晴らしい。
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☆ミヨー:弦楽四重奏曲第6番(1922)

2016年12月13日 | フランス
○タネーエフ弦楽四重奏団(melodiya)LP

プーランクに献呈されている。短調で始まるミヨーの室内楽というのは余り聞かないように思う。とくにこの曲の冒頭主題はあきらかに古典派を意識したものでありちょっと聞きミヨーかどうか迷う部分もある。もっともこのくらいの時期のミヨーの作品にはシェーンベルク派や新古典主義なども顔を出し、晦渋さがいっそう濃くなってはいるのだが。よくオネゲルは晦渋でミヨーは明るい、という誤解があるがミヨーはそもそも聞かれる曲が限られているので、なるべく多くを聞いていくと、作風の傾向として両者ともに晦渋さも明るさも兼ね備えており、実はその両者の傾向がよく似ていることがわかる。作品ごとの性格分けがかなりしっかりしている点で両者ともにやはりプロフェッショナルなのだ。オネゲルにミヨー的な高音旋律を聞くこともあれば、この曲のようにミヨーに非常に目のつまった隙の無い構造を聞くこともできる。また両者の室内楽に共通する雰囲気としてルーセルやイベールの室内楽(の無調的なほうの作品)も挙げられよう。

この盤に同時収録されているオネゲルの3番より、寧ろこちらのほうが計算ずくで斬新さもあり、よくできていると思える。難しさで言えばある種「作法」に囚われたオネゲルのものよりこちらのほうが数段上とも言える。それは単に弾きにくいということではなく、書法的に難しくできているということだ。ただ、両作とも「名作」とは言いがたいのは難点。どうも頭で書いた作品という印象が拭えない。まあ共に短い曲だが、なかなか曲者だ。タネーエフはとても巧い。内声のぎゅうぎゅうに詰まったミヨーの作品で旋律性を如何に浮き彫りにするかは重要だと思うが、タネーエフは正直その点十全とは言えないものの、この「外様の曲」をやはりショスタコのように料理して、しなやかにまとめている。ミヨーって凄いな、とつくづく感じられるのもタネーエフのびしっと律せられた演奏のおかげか。ミヨーが「勢いで演奏すべき類」の作曲家ではないということを証明する意味でも、よく表現していると思う。○。
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ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ〜Ⅱ

2016年12月13日 | Weblog
チェリビダッケ指揮ORTF(ina配信)1975/2/2放送 live

緩やかなテンポでしっとりとした抒情を醸し、恐らくアンコールピースだろうが、コンサートをしめやかに閉じる感。拍手は盛大。
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ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」〜第一組曲、第二組曲

2016年12月13日 | Weblog
◎チェリビダッケ指揮ORTF&cho(ina配信)1974/10/16放送 live

見事。このオケをここまで統制しこのレベルまで引き上げた手腕、ラヴェルの曲だからこそチェリの厳しいやり方が功を奏し得るところもあるだろう。第一組曲の静寂(僅かな放送ノイズと録音の不安定さが惜しい)と臭くならない透明感のある官能もさることながら、第二組曲の初め二曲の周到な設計、そして圧倒的な「全員の踊り」の迫力〜計算なしに力づくでやってはこの迫力は出まい〜はドイツ的だのいったローカル指揮者の範疇を大きく超えた「ラヴェル指揮者」としての適性をはっきり示している。音響的な調和も素晴らしい。このオケのライヴ録音では聞いたことのない大ブラヴォが鳴り止まないのもわかる。チェリ特有の掛け声は聴かれず、音楽は邪魔されていない。良好なステレオだが放送音質レベル。
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ラヴェル:バレエ音楽「マ・メール・ロア」組曲

2016年12月12日 | Weblog
コンドラシン指揮ORTF(ina配信)1974/11/6放送 live

サラサラと速いテンポで入るが二曲目では木管ソロたちがいかにもロシア流儀でいささかぶっきらぼうに、明確な発音により音楽を積み上げ、その厚い響きの上で弦楽器が歌うなど、コンドラシンらしいところを見せる。テンポは重くならずサラサラ速い。そのテンポは三曲目でも維持されフルートなど少しとちりそうになるが、むせかえるような色彩感はこのオケだからこそ臭くならず、いかにも夢幻の東洋の風景をうつしだす。銅鑼も注意深くバランスを保っており、音楽のデフォルメを避けている。木管の歌い回しにもう少し自由があってもいい気もするが、発音をしっかりさせラヴェルの仕掛けた機械的なアンサンブルをしっかり組み立てる意図もあろう、こんなスリリングな掛け合いがあったのか、など発見もあり面白い。相変わらずデリカシーの無い野太い木管のやりとりが続くが、そのぶん立体的ではっきりした構造を楽しめる。弦楽器は強弱を強めに付けられているがおおむね引っ込んだ印象。ロマンティックな終曲はその楽想に似つかわしい安定感のある響きが耳を惹く。ソロヴァイオリンなど事故や音程ズレが膝を折るが、こういうオケなので仕方ない。色彩感に溢れたフィナーレは粘りは無くあっさりめで客席反応も穏やかだが、中プロだからだろう。
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ルーセル:交響曲第3番

2016年12月12日 | Weblog
ル・コント指揮ORTF(ina配信)
1965/3/11放送 live

ステレオだがバランスが悪くペットなど引っ込んでいるためアンサンブルが今ひとつピタッとハマって聴こえない箇所が散見される。一楽章など音響も空疎で客観の勝る演奏に聴こえるが、演奏の実態を録音が伝えきれていない可能性がある。二楽章後半の盛り上がりはミュンシュを思わせる攻めの姿勢で胸がすく。最後のコンマスソロが掠れるのを聴いていて、他の場面の瑕疵もひっくるめるとオケ全体として少しコンディションが悪いのかもしれない。四楽章のラストで弦楽器の音量が上がらずブラスと乖離したようなのはどうなのか。だがさかんにブラヴォが飛んでいるのを勘案すると悪くはなかったはず、これも録音のせいかもしれない。ミュンシュより現代的に整っているがマルティノンより主情的で耳馴染み良い演奏。
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☆グラズノフ:5つのノヴェレッテ

2016年12月12日 | グラズノフ
○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD

ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。
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ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ

2016年12月12日 | Weblog
ツィピーヌ指揮ORTF(ina配信)1968/7/28放送

雑な録音のせいもあるだろう、いきなりドガシャンドガシャンと太鼓は叩かれまくりブラスは吠えまくり、猥雑な感じすらおぼえる。アルベール・ヴォルフがこんな演奏をしていたような気がする。シアターミュージックというと語弊があるものの、劇場で見るダンスの劇伴を思わせる。ライヴ実況録音ではないようだが時代からすると録り方が乱暴というかマイクが近すぎ、荒いステレオゆえ却って臨場感を煽られるところもある。ツィピーヌが一部に人気のあることのわかる起伏にとんだ演奏。ラヴェルのハレの面を味わえる。
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ルーセル:合唱付バレエ音楽「エネアス」

2016年12月12日 | Weblog
マルティノン指揮ORTF他、クレーデル(ina配信)1970/4/22放送 live

1935年ブリュッセル万博のためにシェルヘンから委属された作曲家最晩年の大作(以前のパドマーヴァティに比べれば小規模だが)。ベルギーの歌劇台本作者Joseph Weteringsによる同作には最終合唱 “A Hymn The Roman People”~ムッソリーニの国の首都ローマを想起させフランス人を怒らせた~が含まれていたので、論争の的になった。バレエがパリに到着するには3年かかった(1938初演、作曲家の没後)。その後もめったに上演も行なわれず、1960年弟子マルティノンによってeratoへ録音された。しかしながらその後も演奏はほとんどなされていない。これは同じマルティノンによるライヴになる。

曲は劇性が高く、40分余りかかるがルーセルの少し癖のある作風~重いリズムと生々しいオリエンタリズム(若い頃の「セレナーデ」にある南洋の鳥のようなうわずったポルタメントも聴こえる)~が職人的な腕によって引き伸ばされ、聴きやすくなっている。最晩年作品としてはやや後退した感もあり、ルーセルならではの書法は定型化しているものの、しっかり出来上がっている。反面正直飽きてしまうのも確かで、死亡説流布後に発表された4番交響曲の内省っぷりを求めても裏切られる。マルティノンはセッション録音にくらべわずかにライヴ的な攻めの音楽作りを持ち込んではいるが(そのせいか最初の方で縦がズレかける)、原曲のせいもあって全体構成は弱いように思う。オケはしっかり表現しておりマルティノンの作為的な彫刻より音楽的な調和が前に立っている。録音状態は放送レベルでは良好なステレオ。
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コンスタント・ランバート:リオ・グランデ

2016年12月11日 | Weblog


作曲家指揮ハレ管弦楽団他、ハーティ(P)(SYMPOSIUM/Pearl/EMI他)1930/1/11・CD

同時代要素をこれでもかとつぎこんだメドレーのようなバレエ音楽ふうカンタータ(ピアノソロ付き)で、同世代のウォルトンに似て極めてプロフェッショナルに処理しているため雑多な感じはせず、内容空疎と言われればそれまでだが、素直に楽しめる音楽を志向し成功している。素直に受け止められないような書き方はしておらず、新古典主義的といえば新古典主義的で、リズムなどけして単純ではないが、作曲態度はフランスのフランセを思わせるところがある。短命だったが作曲生命はさらに短かったのは己に対しても批評精神を強く持っていた英国人ならではの気質によるところもあろう。師匠RVWの前期合唱曲の趣も僅かにあるがほぼ影響は受けておらず、ディーアギレフに曲を提供していることからもわかるとおり外に目を向けるタイプで、民族性へのこだわりは無い。そこが作風を確定させられず通俗作曲家の範疇を出ない(それでもアメリカのアンダーソンくらい「レベルの高い通俗作曲家」であったのだが)で終わってしまったところでもあるかもしれない。この人の作品の大部分の基調としてアメリカのジャズがあり、同曲は本人がガーシュインより成功していると盛んに主張したシンフォニックジャズのそのとおり、リズムと一部ハーモニー(全部ではない、音色表現は全くクラシカル)にそれなりに組み込まれている。合唱が入るとカンタータというよりミュージカルの趣も出る。ただたとえばディーリアスのアパラチアであったり、後の作品だがウォルトンのベルシャザールであったり、場面場面で剽窃したような書法によりがらりと雰囲気を変えてくる。13分程度の曲なのにここまで目まぐるしく変えられると、ラヴェルの皮層だけ掬ったようなピアノ協奏曲ふうの部分など、ちょっと頭がついていかないし、ランバート本人の個性は無いのか、と言いたくもなるが、この人は20世紀の作曲家なのである、これも一つの個性の在り方なのだ。ランバート自演はロメジュリ抜粋にホロスコープという組み合わせのEMIのLPを愛聴していて、特に後者は非常に好きな曲だったが、なぜかまったく感想を書き残してなかったので、音源もどっかいってしまったし、「子供じみた玩具のような駄作」というネットの風評に抗えないのが残念である。何度も聞いて楽しむ作曲家ではないが、はまれば熱にうかされる可能性はあります。ガーシュウィンがジャズ寄り過ぎる(ランバート自身もそう主張していた)、という向きはどうぞ。シンフォニックジャズの先行事例としてよく挙げられる、ミヨーの作品ほど書法上の個性が投入されていないので、同じ通俗的でも聴きやすいと思う。
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☆レスピーギ:ローマの松

2016年12月11日 | その他ラテン諸国
○コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団(Gramophone/RICHTHOFEN:CD-R)1920年代

有名な録音にもかかわらずSPでしか聴けず(盤自体の流通量は多かったが)復刻が待たれていたもの。戦前仏グラモフォンで近代音楽の網羅的録音を使命とされたピエロ・コッポラ(割と近年まで存命)。フランスものはイタリア盤CDでかなり復刻されていたが、同時代にあっても雑味も厭わずただ高速で突き通す、ワンパターンな指揮者として余り評価されていなかったようである。しかしこれは他のSP指揮者のものにも言えることで、収録時間の制約があってそのテンポを取らざるを得なかったという説もある。派手な表現、特にオケの色彩を引き出すことには長けており、ただテンポとリズムが単調なためにドビュッシーのような繊細な音楽には向かなかっただけである。

従ってこのようなテンポとリズムが単調でも聴けてしまう音楽には非常に向いている。私はこの異様なテンポは好きだし、中間楽章は確かにこの録音状態では是とはしがたいけれども、終楽章の突進はトスカニーニとは違ったスケールの小さな爽快さというか、世俗的な喜びが感じられ、表現の振幅は全然違うけれどもクアドリを彷彿とさせる楽しい音楽になっている。変なケレンがなく、ただスコアの面白みが存分に表現されている。この時代のフランスの弦楽器は確かにちょっと雑過ぎる。しかし、この曲は弦楽器なんかいらないから大丈夫(暴論)。○。
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☆フランセ:ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ

2016年12月10日 | フランス
○作曲家(P)ボルヒャルト指揮BPO(TELEFUNKEN)LP

若い頃のフランセはそのピアノの腕前のせいか(作曲の腕前は言わずもがなベル・エポック時代の作曲家であることを謳歌するかのように闊達だが)ベルリン・フィルとよくやっていたらしい。よくよく惚れこまれたのかナディア・ブーランジェ師自ら振って協奏曲録音とあいなっているのはCDでも確認できることだ。この曲は協奏曲より更に軽く(小協奏曲なのだから当たり前だが)楽章こそきちっと揃っているものの、みな非常に短い。これは最近亡くなるまで延々と作風として残り続けたわけだが、やはり源泉となるこのころの作品が一番溌剌としていい。ベルリン・フィルは物凄く統制がとれておりさすがの合奏威力、ザッツの揃い方だが、フランセの撫でるように全ての音をスピーディにこなすフランス的なスタイルとは余りあっているようには思えない。地味感が否めないのはこの組合せと、恐らくベストメンバーではない小規模ベルリン・フィルの無個性からくるものだろう。曲的にもフランセのピアニストとしての壮絶な技巧を見せ付けるほどには複雑ではないこともあって、余りに軽く聞き流せてしまった。それも流麗というのではなく地味であるという意味で。悪くはない、だから○にしておくが、新しい録音で聴くべき「鮮度が肝心」な曲ではあるだろう。フランセより指が廻ることは大前提だ。だから、難しい。他愛のない12楽器のためのセレナーデとのカップリング(イッセルシュテット)。
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