湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ミヨー:家庭のミューズ(1945)

2016年12月10日 | Weblog
○作曲家(P)(ODYSSEY)

泣けます。このLPは中古屋で比較的良く出回っているので、突っ込んで聞きたい方は中古通販等で入手される事をお勧めします。ミヨーの巨体からなんでこんなに優しく暖かい音が出てくるのか不審にすら思います。ミヨーのピアノ曲は6人組でも特にエリック・サティの影響が強いと思うのですが、題材はともかく、珍奇に走らず練られた曲であるだけに、数倍聞きやすいと思います。単純だけれども密やかな美しさを醸し出す旋律に傾聴。ミヨー自身の演奏でなくてもきっと満足させます。お勧めです。この盤は録音が非常に悪いので○ひとつにしておく。マドレーヌ夫人に隠れて作曲されたといい、そのまま捧げられた。いとこ同士で、幼時から親しく過ごしてきた夫人には多数の献呈を行っている。たとえば弦楽四重奏曲第16番(1950)は結婚25周年に夫人に献呈されている。,
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イベール:弦楽とオーボエのための協奏交響曲

2016年12月09日 | Weblog
デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD

イベールはカメレオンのようにさまざまな作風を提示して一定水準の満足感を与えてくれる。この曲の焦燥感と内省的なさまはいかにもオネゲル的だが、構造は比較的単純な新古典主義だ。中間楽章でオーボエを中心とする中低音域のやりとりが、ユニゾンを基調に暗く行われるところに、ソリヴァイオリンが高音で投げかける叙情はマルティヌーを思わせ、冷え冷えとした中にもオネゲルとは別種の暖かみを感じさせる。オネゲルほど緊密ではないので過度な期待は禁物だけれども、この演奏のように中庸の美観を保ったものは、地味ではあるが聴きやすい。デ・ランシーは個性を打ち出すタイプではなく音色も表現も手堅い。だからイベールならではの憧れに満ちたフレーズではもう少し何か欲しい気もするが、融和的ではある。アンサンブルは少し緩いか。
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サティ:ジムノペディ第1番、第2番(ドビュッシー管弦楽編曲)

2016年12月09日 | Weblog
デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD

原曲は3,1番なのでややこしい。ドビュッシーの少し押し付けがましい編曲を、プレヴィンは細心の注意を払ってバランスを整え抑え鎮め丸め、これ以上はないほど「ジムノペディらしいジムノペディ」的な管弦楽の演出に成功している。オケが主張するタイプではないこと、木管のニュートラルな音色と技術的な安定感が成功に一役買っている。ドビュッシー版を聴くのにこれより良いものは無いと思う。2番(原曲1番)の密やかさは絶品。サティらしさというより、ジムノペディらしさなのだ。
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フランセ:オーボエと管弦楽のための「花時計」

2016年12月09日 | Weblog
デ・ランシー(ob)プレヴィン指揮LSO(RCA/sony)1966・CD

フランセの音楽は愉快だ。しかし演奏者が愉快とは限らない。ヒリヒリするアンサンブルに聴いているこちらも神経をすり減らす思いがすることがある。でも、この演奏は優しい。曲の華やかさをことさらに引き立てることなく自然に、柔らかく厚い音もなつかしい。緩いと思う人もいるかもしれないが、こういう録音は癒やされる。精度という機械的な部分とは別で、こなれており、ライヴでは実現し得ないものかもしれない。この曲はオーボエというところがまた癒やされる要素でもある。
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☆バルトーク:ヴィオラ協奏曲

2016年12月09日 | 北欧・東欧
◎プリムローズ(Va)ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団(green HILL)live・CD

非常に音はいいし演奏自体も軽さすら感じさせるまでにこなれていて美しい。バルトークの情念的な部分の殆ど無い、ウォルトンのような表現というか、ウォルトンが真似たとも言えそうだが、ヴァイオリン的な音でそつなくこなすプリムローズだけに(そういう演奏ばかりではないがココではそのとおりである)尚更聴きやすく娯楽性が高い。ヨッフムがまたプリムローズと組み合ってありえないくらいの融合ぶりを発揮して、伴奏指揮者として巧い。◎。
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☆ミヨー:弦楽四重奏曲第14番

2016年12月09日 | フランス
○パレナン四重奏団(EMI)CD

例によって15番と八重奏曲(14,15番を同時に演奏することにより八重奏曲としたもの、ベルネードQとの合同録音)の組み合わせだが、この14番は、最初の旋律だけが目立つ15番にくらべ対旋律まできちっとした旋律になっている(ミヨーは旋律重視の人です)がゆえの、ミヨーならではの弱点が目立つ。高音二本と中低音二本がしばしば完全に分離し、おのおのが違う楽想を流し、構造的には組み合っているが和声的には「耳ごたえのある」分厚く衝突するものになる場面がやや多いために、楽器元来の威力的にどうしても高音部が負けてしまう。耳に届く音として、とくにミヨーのように高音旋律の作り方が巧く、更に超音波に達するくらいの(大げさ)高音を個性として駆使する人においては、確かにはっきり届きやすい要素はあるのだが、もちろん音量的に(倍音含め)出る音域ではないため、チェロが楽器角度に左右されずしっかり収録できてしまう「録音媒体」となると、土台のしっかりした深い響きに消し飛ばされてしまう。ミヨーの低音はかなり低い位置でひびくことが多いが、音が永続的に鳴り続ける擦弦楽器となると通奏「重」低音としてアンサンブル全体の響きをかき乱してしまうことがあり、低すぎて明確な音の変化まで聞き取れなくても、牧歌的な楽想にたいしては「強すぎるデーモン」になりうる。小規模アンサンブルでこのような明るい主題の曲で、どうしても両方に主張させたい場合弱者側にはピチカートなどの奏法を織り交ぜさせ書法的に対抗するか(ミヨーもやってるが)、演奏者側が意識して音響をととのえないと、数学的には合理でも音楽的には非合理になりうるもの。この演奏が、あきらかに耳ざわりのよいはずの14番より15番のほうが聞きやすく感じがちな理由は、チェロとヴィオラが「田園に射し込む一握の雲の綾なす陰」を逸脱し「田園を覆い尽くさんとする暗雲のドラマ」になってしまっているせいだと思う。まあ、録音のせいかもしれないが。ミヨーの厚ぼったい書法を解決するのにパレナンの透明感はマッチしているので、ちょっと惜しかった。○。しかし・・・この曲に更に4本追加して8本にするなんて無茶だ。この曲だけで十分お腹一杯な音響なのに。
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☆カバレフスキー:ピアノ協奏曲第4番

2016年12月08日 | Weblog
◎ポポフ(p)作曲家指揮モスクワ・フィル(olympia)1981・CD

なかなか面白い曲。三楽章制だがこの演奏でわずか13分、簡潔だ。懐かしきモダニズムの時代を思わせる鮮烈な出だしから、プロコフィエフ的な新古典的展開。響きは清新な空気を振り撒き、部分的に非常に美しい。民謡ふうの旋律はまったく無く、新しい時代の曲であることをアピールする。終楽章はスネアドラムの焦燥感に満ちた音が面白いスパイスとなっていて、ジャズふうの曲想とからみ、耳を惹く。その響きはアメリカ的ですらある。ポポフが巧い。,
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:ヴァイオリン・ソナタ

2016年12月08日 | ヴォーン・ウィリアムズ
◎グリンケ(Vn)マリナー(P)(DECCA)LP

この底から響く深い音で初めて曲がわかった。メニューヒンでは音が明る過ぎたのだ。献呈者による演奏だが、二楽章の不恰好な変奏曲も変奏としてではなくひとつひとつの音詩として解釈し、最後に変奏であったことを思い出す程度の表現をすることによって、新古典派の影響を受けて以降型にはまったような書法に縛られるようになる作曲家の本質的な美質を別のところにしっかり構築し直している。ソリストとしての技量は高く、殆ど本国でしか活動しなかったため知名度は無いが数々の同時代の作曲家の献呈を受けていた「英国的なヴァイオリニスト」(フレッシュとブッシュの弟子であるが)の面目躍如たる大人の演奏をきかせる。サモンズとは別の音色の落ち着いた華麗さがある。同じ曲なのか、と思うくらい・・・それはDECCA盤の重量感がそう聞かせているだけかもしれないが・・・転脳を余儀なくされた。まったく、楽譜から入ると誤解したまま演奏を評するようになるなあ。というか、名曲ではない佳作程度の作品は往々にして積極解釈を施さないと意図通りの音楽として聞こえないものである、だからファーストインパクトは重要だ、と改めて思わされた次第。ちなみに曲の説明は面倒なのであんまりしないけど、RVW後期もしくは晩年の作風に拠るやや晦渋な新古典的作品、とだけしておこう。◎だ。
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ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲

2016年12月07日 | Weblog
作曲家(P)ベートーヴェン四重奏団(moscow tchaikovsky conservatory)1955/1/20モスクワlive・CD

モノラル、この時代のソヴィエトとしては、レストアもしているんだろうが、中身の詰まったまずまずの録音状態と言えるのではないだろうか。ライヴのせいもあってか楽団の性質の荒々しさが音色にあらわれていて、とくに三楽章は録音もささくれだって耳辛いが、ショスタコーヴィチのピアノは深くはっきりと、一部自作自演録音にみられるもたつきは皆無で、全体としては求心力のある力強いまとまりが印象的である。暗い楽章での悲痛さが生々しく、馬力ある慟哭が聴ける。引用風のフレーズや響きにしても、まったくショスタコーヴィチの暗黒の一部と化している。終楽章も唐突に明るく音楽を笑い飛ばすことはしない。それまでの雰囲気を引きずり、分厚い音のまま軽いシニカルな動きすら意味深く、しかし、ショスタコーヴィチ自身もそれに同調して一貫した深い音を落としていく。ピアノアンサンブルにありがちな、俺が俺がと派手に前に出ようとすることをしない。しかしこの演奏は大部分において一斉にフォルテであり、フィナーレの終末でやっと童心に還るような優しいフレーズに落ちるまで、弱音のニュアンスと対比でしっかり変化をつけることはしていない。そういう意味でも作曲当時の生々しい演奏と言うべきものはある。ここから解釈は深められていくのだ。
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☆マーラー:交響曲第3番(1893-96、1902)

2016年12月07日 | Weblog
○シェルヒェン指揮ライプツィヒ放送交響楽団、チェルヴァーナ(A)(TAHRA)1960/10/1-4LIVE・CD

思えばターラ・レーベルの名を轟かせたのがこのシェルヒェンの実況録音だった。シェルヒェンの発掘から始まったといっていいターラ・レーベルの快進撃はヲタなら周知のとおり。そのリマスタリングの優秀さと発掘音源の希少さゆえにたくさんのファンを獲得している。モノラルではあるが、音質は良好である。迫力に欠ける感じもなくはないが、シェルヒェンの特異な解釈を聞かせるには過不足無い録音である。シェルヒェンは曲を分節ごとに切り刻み、ディジタルなコントラストをつける。ピアノのあとにいきなりスピットでフォルテッシモ、といったかんじで、ダイナミクスにかんしては松葉が無くいきなり最強音逆に最弱音といったやりかたを(全部とは言わないが)やっている。音量だけでなくテンポについてもそう。いや、テンポこそもっとも気になる所で、基本はかなり速めのテンポなのだが、叙情的な主題が一節挿入される場面でいきなり急激な(スピットな)リタルダンドをかけ歌わせて、またもとの行進曲に戻った途端速いテンポに戻す、こういったことを、とくに1楽章では頻繁に行っている。それが聞き物にもなっており、全般的には颯爽とした表現ではあるが凡庸な客観解釈に堕しないのはそのあたりに要因がある。細部はアバウトだけれども、聞かせる演奏だ。2楽章もまた面白い。ミステリオーソの4楽章は歌唱がややふるわないが悪くはない。終楽章がまた面白い。非常に速いテンポでさっさとそっけなく進んでいくが、歌わせる所は目一杯歌わせている。クライマックスなどそうとう速いのだが、結果として23分を要する演奏となっているのだ。これがマーラーなのかどうかわからない。しかし、「シェルヒェンのマーラー」としては間違いなく第一級だ。佳演。,
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:二台のピアノのための協奏曲

2016年12月07日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○ホイットモア&ロウ(P)ゴルシュマン指揮ロビンフッド・デル・フィラデルフィア管弦楽団(RCA)LP

RVWはピアノが不得手という近代作曲家には珍しいタイプの作曲家で、ピアノのための曲を書いていなくは無いがきわめて単純な旋法的書法に拠り、専門ピアニストがレパートリーとするにはいささか物足りなさを感じさせるような代物だ。壮年期のものには旋律の平易さとハーモニーの美感に特有の魅力があるため、それが何故弦楽器ではないのか疑問に思う部分もあるにせよ、私は好きである。この曲はまだ「才気だけ」で曲の書けた頃のRVWが、「美しいだけ」の音楽から脱却しようとした境目にあたる「ヨブ」と同様の作品で、原曲のピアノは一台だけである(殆ど演奏されない。二台使うには音数が少なすぎるがそういう問題ではない・・・ほらピアノ不得意でしょ)。いずれの曲も後半突如デモーニッシュで構造的になるが、これらのうちはまだ生温く、4番交響曲をもって諧謔性を含むヒンデミット風の新古典主義に移行することになる。この曲は比較的よく受け取られ、書法上参照されたと思われるバルトークから民族性の昇華の面で賞賛も受けている。

RVWはしかし真面目な作品となるとどうも単純で美しく描いてしまう。反面シニカルさを表現しようとすると、緻密さに欠けるところもあって、通り越して滑稽に聴こえてしまう。もともとそういうコミカルな部分を聴かせようという意図もあるのだろうが、結局演奏家が取り組むとなると大真面目にやってしまうものだから、楽想に脈絡の無い「ちぐはぐな曲」という側面が強調されてしまう。だから演奏機会が少ないのだろう。でもこの曲の大半は美しくあろうが滑稽であろうが非常にRVWらしい表現の魅力に満ちており、ただ身を浸らせたくなるような部分は多くある。ウォルトンの「オブリガード・ピアノと管弦楽のためのシンフォニア・コンチェルタント」もピアノ向きではない作曲家のぎごちないピアノ協奏曲として記憶される曲だが、聴感も割とこの曲と似ており、旋律やハーモニーの素直な魅力という点ではもっと演奏されてもいいものだ。

同デュオは主として20世紀前半から中盤に活躍し若々しい録音を数多く残している。演奏スタイルはデュオとは思えない融合振りで技巧的にも高いものを感じさせるが同時期主流だったアメリカ的なドライさはそれほど際立たず、でもやっぱり即物傾向はある。音色は特に特徴的ではない。ゴルシュマンは編成を小規模化したため弱体化したオケをそれでもしっかり取りまとめ、モノラルであることも手伝って求心力の強いアンサンブルをこうじている。拡散的で長ったらしい曲に対しこのソリストたちとバックオケはばらけることなく一貫した強い演奏スタイルを貫いており、RVW節では英国風の中庸に軽い響きでかなり意図に肉薄したものを作り上げられていると思う。曲の魅力を汲んだなかなかいい演奏であり、良い復刻が望まれる。webで聴ける模様。
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☆マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2016年12月06日 | マーラー
○ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団(movimento musica/WME:CD-R/DATUM/memories)1961/4/7?(3/30-4/6、WMEは表記上1950年代、DATUMは1960)・CD

ややこしいことにCD化以降データが錯綜しているが、恐らくいずれも同じスタジオ録音の板起こし。DATUM盤については既に書いたがこれも表記上のデータと実際の録音期日にはずれがあると思われる。正解はディスコグラフィどおり1961年3月30日~4月6日のセッションであるようだ(ちなみに私はLP含めこの三種全部持っている)。戦中録音とはオケ違い。しかしロスバウトのセッション録音とは思えない演奏上の瑕疵が特に中間楽章に目立ち、最終テイクでないものが流出している可能性もあるかもしれない。WMEは最新の復刻になるが(後注:2016年12月にMEMORIES(1961/4/7表記)が廉価で全記録復刻)、DATUMと同様板起こしであり、なおかつ原盤の状態が非常に悪いらしく、盤の外周部すなわち各楽章の冒頭が必ず耳障りな雑音だらけになり、そうとうに聴くのに苦労を要する。更に馬鹿にしているのは3楽章であり、ロスバウトの雄大で情緒てんめんなマーラーの緩徐楽章が音飛びだらけ。はっきり言ってこれは販売に値しない盤であり、LPを探して聴いたほうがよほどマシである。

演奏の独創性はマーラーに対するロスバウトの思いいれによるものだろう。この冷徹ともされる指揮者が如何に起伏に富んだマーラーを描いたか、とくにテンポを遅い方にルバートするやり方を駆使した粘着質の情緒が、ドライで研ぎ澄まされた音の鋭さ・・・特に打楽器・・・と何故かマッチして、非常に美しい音世界を描き出している。詳細は前に書いた内容と同じなのでもう書かないが、現代音楽指揮者というイメージはそろそろ払拭されたほうがいいのではないかと思う。古典からロマン派から独創的な演奏を残しているのだ。演奏に対して○。録音がよければ◎にできたであろう演奏。
Comments (2)
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ペッピング:交響曲第2番

2016年12月06日 | Weblog
フルトヴェングラー指揮BPO(arkadia/melodiya)1943/10/30初演live(4/31?)・CD

melodiya盤の音はノイズを削り過ぎたのかボロボロで音像も安定せず耳に痛い。残響も加えたか?曲は保守的。それなりに和声含め新味を持ち込もうとしながらも、レーガーのような手堅さが目立ち、ヒンデミット的な構造の古典志向はあらわれながらもまったくヒンデミットの前衛手法に近寄らず、一楽章は所々単純なリズムの強調、予想通りの表現、ベートーヴェンとしか言えない。二楽章はエルガーにも似て旋律的で、不穏な挿句を交えつつ基本的には穏やかな流れが厚い響きの上に乗り聴きやすい。フルトヴェングラーなので少し過剰にドラマティックに感じるところはある。オケが力強すぎるのかもしれない。三楽章はドイツ的なスケルツォで、ちょっと民族的な趣のある挿句、ワグナーのように強靭に吠えるブラス、中低音域の活躍する、同曲の中ではフランツ・シュミットレベルの個性のあらわれた、だがしかし単に後期ロマン派に古典的な構造性を持ち込んだもの(ブラームスには似ない)とも聴ける楽章。やかましいスケルツォで長く感じる。四楽章は晦渋だがけして耳に辛くはないメジャーなんだかマイナーなんだかふらふらしたようないかにも世紀末音楽ふうの出だしから(世紀末ではないのだが)。弾きづらそうな変なシンコペーションもフルトヴェングラーとベルリン・フィルは押し通してしまう。半音階的で諧謔性を孕むキッチュな楽想からオーボエより提示される暗い旋律は古典的というか、ちょっと他にない感じ(だが新しくは感じない)。木管の重ね方はマーラーも思い出す。太鼓とブラスをバックに跳ねるキッチュな楽想は弦楽器の協奏的なやり取りを前に壮大さを獲得する前に断ち切れて終わる。拍手カット。アメリカアカデミズムのマイナー曲よりは聴けるが、アメリカアカデミズムのマイナー曲がキャッチーなフレーズを挟んでくるのに対して、こちらは構造に没入するあまり聴衆受けを考えていない模様。二度聞く気にはならない。初演は一回しかないのでデータはいずれにせよ同じもの。
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ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2016年12月05日 | Weblog
カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団(weitblick)1966/4/15・CD

モノラルなら誤魔化されたのかもしれないがステレオだとバレる。オケ弱すぎる。一楽章からバラケて音荒れて腰砕けにされるが、特にブラスがきつい。ホルンの変な音程から始まり(音程を低めにとることについてはオケの特性だろうが不安定で、二楽章の弦楽カルテットもゾッとする)、とちる、縦をズラすなど事故が多い。カイルベルトもステレオで聴いてみるとコンヴィチュニーに比べ中低音域を余り強調しないような気がする。ガッシリしたフォルムが(硬直したテンポ設定やリズム処理には確かにそういう志向は感じられるのだが)音の軽さのせいで中途半端な感がある。これもオケのせいかな、とは三楽章を聴いて思うことだが。救いは低弦の分厚い表現で、重なる場面では正直アマチュア並のヴァイオリンをきっちり支えている(この音色のバラケ具合は往年のケルン放送soならではなんだろうが、今まで正規盤で出なかった理由がわかる)。あと木管は安定しているか。踊らない実直な三楽章から格調ある四楽章。カイルベルト、掛け声発してる?か細いヴァイオリンパートも何とか食いついている。ワグナーを思わせる雄大な表現、テンポルバートなど、もっとボリュームは欲しいが、とりあえずカイルベルトがたまに見せる粘着質のフレージングが聴かれ楽しいところがある。ボリューム不足について触れたが、これは録音のせいだろう、音量変化に乏しいのは難点。少し録音操作してもよかろう気もする。ちょっと独特の音の切り方をしつつ、フィナーレ急に突っ走って終わる。環境雑音が無いので放送録音か。
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☆ラヴェル:ピアノ協奏曲

2016年12月05日 | ラヴェル
○園田高弘(P)ブール指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(EVICA,日本クラウン/SWR)1965/12/13・CD

入りからびっくりしたのだ、あ、ロンの音だ、と。フランスの至宝と呼ばれたマルグリット・ロン女史(ロン・ティボー・コンクールのロンね)の、明快だがどこかロマンティックな軟らかい色のある音。タッチが似ているのか。ライナーにもあるとおり園田氏はブールより、「直伝」と言われたロン女史の解釈(じっさいにはラヴェルは最盛期の女史に容易に口出しできなかったとも言われる)とは異なる、譜面にあるとおり「だけ」の演奏をするように強いられたという。しかし器楽演奏というものは指揮者や作曲家の考えるものとは違う部分がある。統制のきかない部分は確かに残る。これは「ドナウエッシンゲンのブール」の世界に園田氏が埋没させられてしまったのではない、素晴らしい技術的センスと鋭敏な反射的能力を駆使した園田氏が、ブールが思い描く「客観即物主義的な音楽観」を損なわず、かつ(無自覚のようだが)自らのほうに見事に融合させている。寧ろその性向的にブールでよかったという結果論も言える(晩年のロン女史のような「突っ走り」は無いが、フランソワのようにスピード感が失われることも決して無い)。

両端楽章においてはこの盤の表題になっている「若き日」とはいえ、浅あさしい技巧家ぶりは無い。2楽章は最も繊細な感覚が要求されるがここで古典的構成感とロマン派的旋律性の狭間に確固としたテンポで柔らかく奏される絶妙な音楽は、より直伝に近いと言われたスタイルを持っていた(しかしこの曲は時期的に直伝ではない)ペルルミュテールに似ているかもしれない。

ブールのラヴェルはロスバウトより色が無く、音は軽やかでも揺ぎ無い構造物となる。だが遅さや重さというのは感じない。巧緻な設計のなせるわざだろう。全く別種の指揮者とはいえ同じ指向も感じさせるケーゲルのムラある芸風とは違い、スコアを固持はするものの、ギリギリ「どちらにも振り切らない」ことにより晩年ラヴェルのロマンティシズムを失わず、あっさりもしすぎない魅力的な演奏を仕立てる。ライヴではこうもいかなかったかもしれないがブールのライヴに精度の低いものは知らない。少なくとも同じ即物的傾向の強い透明なラヴェルを得意としたベルティーニの無味乾燥とは違うものではある。うーん、これは知られざる名演だが、一般的ではない。何故だろうか。○。
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