りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

カナちゃん。

2009-10-26 | Weblog
昨日は、朝から地区の清掃作業だった。

僕は今年の地区の代表者なので、先頭&中心になって動いた。
溝の掃除、道路の掃除、土砂崩れの補修(マジよ)などなど。
そんな雑務の中で大半の時間を費やすのが、雑草の駆除だ。
道路の斜面や、小川の河岸に生えた雑草を鎌で根こそぎ切り抜く。
自分の背丈より高い、半分“木”のように成長した雑草を
切り抜く時は、ちょっとした快感を覚える(笑)

そんな雑草の中に、この時期は、黄色い雑草を目にする。
“セイタカアワダチソウ”という野草だ。
誰もが一度は見たことがあるだろう。(写真参照)
しかし、その野草を見た瞬間、僕の頭の中に
“喘息の花”という言葉が浮かんだ。
そして、それと同時に、とある少女の顔も・・・。

小学1年生の時のことだ。
入学とほぼ同時に転校生がやってきた。
カナちゃんという名の女の子だった。
スラッとした長身で、長い髪をいつも三つ編みにしていた。
カワイイという言葉よりも、キレイという言葉の方が似合う女の子だった。

しかし彼女には、皆と少し違うところがあった。
運動が出来ないのである。
体育はいつも欠席していた。
学校を休むことも多かった。
ほどなく、クラスの誰かが“カナちゃん、ゼンソクらしい”という
噂話を教室でまき散らし始めた。
もちろん、小学1年生の子どもが喘息という言葉の意味はもちろん、
その病気の詳細を、ちゃんと理解しているわけがない。
僕らは“ゼンソク”という言葉を記号のように覚えて、そして上っ面
の浅い知識だけで“カナちゃん=ゼンソク”と頭の中にインプット
してしまった。

子どもという生き物は、残酷だ。

自分たちとひとつでも違うと分かると、そこを徹底的に容赦なく攻撃する。
1年生の頃は、みんなと仲がよかったカナちゃんは、学年が進むにつれて、
いじめの対象になってしまった。

ある日、クラスの誰かが、新しい知識を教室に持ち込んで来た。
“道端に黄色い草があるだろ?あれって、ゼンソクの花なんだって”
その言葉と同時に、当然のように、冷たい視線の束がカナちゃんに向けられた。
当時のカナちゃんは、相変わらずキレイな女の子だったが、教室の隅で、
自分で自分の存在感を失くすように、こっそりと居る女の子になっていた。
今になって思えば、それが数年間のいじめによって身につけた、彼女なりの
処世術だったのだろう。

その言葉に便乗した誰かが、カナちゃんに向かって吐き捨てるように言う。
“おい、お前、あの草に触れたからゼンソクになったんか?”
“家で、食べてるんだろ?”
“いっぱい食べるから、家で育ててるんだろう?”
カナちゃんは机に座って俯いたまま、同級生の暴言にじっと耐えていた。

やがて僕らは小学6年生になり、そして卒業し、中学生になった。
同じ町の中学校だから、小学校の同級生もそのまま同じ中学校の
生徒になったわけだ。

しかし、そこにカナちゃんの姿は、なかった。

後日、母が僕に教えてくれた。
カナちゃんは、卒業の翌日、引っ越したのだった。
引っ越し先は、大分県だった。
大分は、カナちゃんのお父さんの故郷だったそうだ。

誰も、知らなかった。
そしてカナちゃんも、誰にも教えなかった。
誰にも何ひとつ教えずに、お別れの挨拶もないまま、
こっそりと、静かに、カナちゃんは行ってしまった。
まるで教室で存在感を消していた、あの姿そのままで・・・。

今でも、あの頃の同級生の何人かと呑むことがある。
その時、思い出したように、誰かがカナちゃんのことを口にする。

“悪いことしたな・・・”

誰かが、酒を片手に、ため息といっしょにそう呟く。
明らかに遅すぎる後悔だということは、その場にいるすべての
人間は痛いほど分かっている。

カナちゃんがこの町に訪れることは、たぶん、もう二度とないだろう。
そして、僕らがカナちゃんと再会することも、もう二度とないだろう。
だって、彼女にとってこの町には、何ひとつ、いい思い出なんてないのだから・・・。

道端の斜面に群生したゼンソクの花・・・いや、セイタカアワダチソウを
僕は、鎌で根こそぎ引き抜く。
近所の人が“手伝いましょうか?”と尋ねてきたが、僕はそれを断って、
すべて一人で引き抜いた。
今では、セイタカアワダチソウと喘息は無関係だと立証されているそうだ。

「カナちゃん、ごめんね・・・」

心の中でそう詫びながら、群生しているセイタカアワダチソウをまたひとつ、
僕は力いっぱい、鎌で引き抜いた。

コメント (4)
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