歯医者へかかりながら実家の親に会うために、車で1時間の道のりをドライブする。
木々の緑は青々とたくましさを備え、ところどころに混ざるアカシアの白くたわわな花が変化を添える。
また、かつてこの地域では、女の子が生まれると嫁入りに持たせる桐の箪笥を作るために屋敷内などに桐を植える習慣があったころの名残の桐が、薄紫の花を咲かせてる。
もちろん我が家にも1本と離れたところの狭い畑に3本の桐が植えられているけれど、時代の流れで当初の役目を果たすことなく毎年花を咲かせる境遇に落ち着いた。
そういう意味では杉もそう、防風林ばかりではなく、子孫が家を建てるときの材木や男の子のこいのぼりの棹などのために空いた土地などに植林していた。
安い外材におされてこれもすでに出番を失い、枝払いや下草などの手入れもなく忘れ去られ、あるとき大きくなりすぎて邪魔になったとかでばっさり切り倒されるところを頻繁に目撃するようになる。
人の生活圏内にある木々たちは、作為的に作られた自然で少々同情を誘う。
何か形を変えて生きながらえればいいけれど、邪魔だと行く理由で切られ燃やされてしまうだけでは浮かばれないだろう。
篠や蔦の蔓延る杉林やたたずむ桐を見て憐憫の情を感じたのである。
ところでアカシアは、自然に生えたのか、それとも杉や桐のように何か意図的に植えられたのか、今のところ知る由もないのであった。
これが、白いアカシアや薄紫の桐の花を見て往復の車を運転しながら、ふと気になったこと。