まるで休眠する前の昭和のようだ。
二坪ほどの三和土(たたき)から式台へ上がるとエンジのスリッパが並んでいて、足をスリッパに収める僅かの間も八音は控えて待ってくれている。坪庭が見える廊下を「く」の字に曲がると階段と奥へ続く廊下とに分かれ、階段を上る八音の後ろに続く。
潮騒は相変わらずだが、海岸通りを走っていた車の音が止んでいる。二階廊下の片側は縁を隔てるガラス戸が嵌っているのだが、そこから臨む江ノ島は百年ほども前のもののように思えた。
コンクリートの江ノ島大橋は、桟橋の名が相応しい木製のものに変わっているし、江ノ島のシンボルである展望塔の姿も見えない。
「落ち着いた雰囲気が好きなので、家の中に入ると百年ほど昔にもどるようにしているの」
「とても懐かしいわ」
「マヂカが活躍した時代も、こんな感じでしょ?」
「活躍なんてできなかったけど、精一杯足掻いていたのは、こんな感じ。休眠前は魔法も禁じられて、出撃を前にした特攻隊員にもロクに食べさせてあげることもできなくて、こういう貸席とか待合とかで昼寝をさせてあげて、僅かの微睡みの中で見る夢を飾ってあげるくらいのことだった」
「ふふ、なんか見透かされてるみたい。わたしもたいしたこと出来ないから。相談にのってもらう間の雰囲気くらいね」
八音が手を振ると、一気に時間が進んで夕暮れの湘南になった。
海岸通りを懐かし色に染めているのは、どうやらガス灯で。江ノ電の駅までの通りはボンボリのろうそくの明かりだ。
道行く人たちの半ば以上が下駄か草履で、カラコロと小気味いい音を響かせている。階下の貸席にはお客が入ったようで、複数の部屋から穏やかに談笑の声が漏れ、お客に挨拶したり案内する仲居さんの声や足音。
そのうちの一つが階段を上がって部屋の前で停まった。
「お嬢様、お茶うけをお持ちしました」
「ありがとう」
八音が返事をすると、障子が身幅ほどに開いて和装のお仕着せを着た仲居さんがお茶とお茶うけの盆を差し入れ、一礼をして姿を消した。挙措動作が懐かしい。
「昔はこうだったから」
「まあ、シベリア!」
勧めてくれるお茶うけはシベリアだった。薄いカステラに羊羹を挟んでサンドイッチのようにしつらえたお菓子は七十四年前、特攻隊員たちに所望されても叶えてあげられなかった逸品だ。
「食べながら聞いてね」
「うん」
「じつは、江ノ島の正面、赤い鳥居が見えるでしょ。その鳥居をくぐった向こうの入り口みたいなのが瑞心門」
「ああ、あの竜宮城みたいなの?」
「うん、九百年ほど昔に悪さばっかりするガマを封印したんだけどね、そいつが、わたしの好きを狙っては封印を破って……まあ、九百年もたつんだから、少々のことは目をつぶってやってもと……」
「放置していたら、手が付けられなくなった」
「あ、まあ、そういうとこ。それでね……」
八音が続けようとすると、スマホが鳴りだした。
「マナーモードにすんの忘れてた。ごめん、マヂカ」
すまなさそうにウィンクする八音。
とたんに、明治レトロな和室は、六畳フローリングにピンクのカーペットを敷いた今どきの女の子の部屋に変わってしまった。