よろずの記 and 爺へ               

人生、残り少なめの日々の出来事や思いの綴りです。
やはり、ツーカーと話せるのは爺でした。  

私の青春 (前)

2016年09月20日 22時51分34秒 | 自分史
先日、『青春』が話題になったので、私の、はるか昔の青春はどうだったかなあと思い出しつつ、・・・。

あの当時、大学に進学するのはクラスの3割程度、私は学費を考えれば受験できなかった。
それよりも早く給料をもらいたい方が強かったかも。

卒業後、すぐに入った会社は社員の多い会社で、私は、お姉さんがいっぱいの課に配属された。
学校とは違い、年齢差が段々とあり、兄弟姉妹が兄一人だけの私にはうれしかった。
仕事も面白く、楽しかった。

他にいろんな部門があり、男性もいっぱいで、休日には合同でハイキング、キャンプ等、会社の
トラックの荷台に乗ってピーチクパーチク、歌やおしゃべりしながら行ったものだ。
時間があれば卓球、時には社交ダンスの練習と、仲間がいっぱいだった。

県内にひとつしかない天然スケート場には時々、4~5人で滑りに行った。
それも、バスを乗り継ぎ、安い国民宿舎に泊って、高原のスケート場で滑る。
これがまた楽しかった。話を聞いていた男子新入社員が
「僕も連れてって。」
「じゃあ、用心棒代わりに一緒にお出で。」と先輩気取りで一緒に行ったこともあった。

仲良し友達と帰宅途中に、おでん屋に寄ったり、納涼バスというほうずき提灯を下げたツアーバスをみて、
「乗ろう!」と、夜の青島海岸で遊んで帰ったり、
ほんとに自由だったなあ。

でも、いつからか、せめて短気大学でも行きたいと貯金していって、ちょっと離れた県の短大を受験した。
そのために勉強をしたつもりだったが、「サクラチル」の電報で終ってしまった。

                                      つづく
  スケートの写真がみつかりました。
  この頃でカラーなので驚きました。
  

私の就職試験 B、C社

2016年03月26日 22時05分37秒 | 自分史
B社、C社

我が家は母子家庭で、貧乏だったから、大学には行かないと決めて、B社を就職の本命としました。

1次試験が済んで2次の面接で質問されたのは
「どうしてこの会社がいいの?」

「はい、つぶれる心配が無いからです。」
笑われたなあ。

次に、保証人(叔父)を見た試験官のお一人が、
「これは同級生だ。彼は元気かな?」

そんな風な面接で終った。いじめられたA社とは大違いだった。

次にC社。ここはコネがあるのが嫌で、試験の昼休みに、B社の合格通知が来ていないかを確かめに、
近かった自宅に帰ってみた。
通知が来ていれば、もう途中でC社の試験は放棄するつもりだったが、残念。

その後もアルバイトして、待って、待って、B社の通知の遅かったこと。
ようやく通知が来たのは3月の末だった。やったー!

記念すべき4月1日入社からずーっと、35年間、よく頑張ったね、私。






私の就職試験 A社

2016年03月24日 22時06分17秒 | 自分史
高校卒業後の就職の為、3つの会社を受けました。

A社

「ここに通れば、大学にも通るから、受けてみろ。」と担任に言われて受験したら一次試験にパス。
2次試験の面接を受けに、おそるおそる、慣れない福岡まで行った。

面接には失敗し、最初から身長が足りないとわかっていたのだから、受けるのが間違いだったのに、
なんで先生は・・・ぶつぶつ、ぶつぶつ。

その日の帰りはもう遅くて、福岡から宮崎行きの汽車の便が無い。
どうしたらいいのか困っていたら、一緒に受験した大分のSさんが助けてくれた。

Sさんとは、その受験で知り合ったばかりだったのに、大分まで一緒に帰り、彼女の家に泊めてもらえた。
そして、翌朝早く、宮崎行きの列車に乗った。

彼女の家は、倉庫の屋根裏のようなところで、母娘ふたりで生活の様子だった。
あの時代には珍しくないことで、今でも、あの部屋が懐かしく、スラリとしたSさんを思い出す。
まさしく一期一会だ。

Sさん、Sさんのお母さん、56年前の親切はずーっと忘れていません。ありがとうございました。

幼少時代 (自分史)

2015年03月10日 15時05分41秒 | 自分史
今朝のNHKドラマでは、戦死公報の届いた場面に涙しました。

私の母にも、ああいう風に届いたのだろうか。
私がまだ3歳になるか、ならない頃、大人がみんな同じ方を向いて座っているので、
変だなと思ったのを覚えています。父の葬式だったと、後で判ったことです。

顔も知らない、抱っこされた記憶もない父、ニューギニアの戦地でどんなに辛いことだったか、計り知れません。

私達は空襲で、庭の防空壕に逃げ入ってるときに、出入り口のふたが爆風でパッと開いてバタッと閉まって怖い思いを。
大事にはならなかったようですが、たぶん、その後に、父の実家の田舎に疎開したのでしょう。
遠い所で、左に山、右下に川の流れる道を母と兄と3人で歩きました。

優しいばあちゃん、おじちゃん、タバコ畑でよく遊んでくれた従兄妹達を、今でも少しは覚えています。

順序としては、終戦となり、それから自宅に帰ったのでしょう。
もうすぐ4歳の頃でした。

家の庭には大きなイチョウの木があり、高い枝にかけられた縄のブランコで遊びました。

ザクロの木もあり、それの実は酸っぱくて、これは人間の肉の味なんだぞ、と誰が教えてくれたか、
人間を食べるぞ~と近所の子とふざけて食べたりしました。

トマトも成っていて、香りも味も、露地物の良さだったのでしょう、今ではなかなかその味に会えません。

5歳の頃は、幼稚園へ。その頃はみんな下駄です。数少ないお金持ちの子だけが靴でした。
教室はお寺の本堂だったような・・・。

ゆうぎ会のお稽古で、『お猿のかごや』のダンス、くるーっと回って正面を向かねばならないのに、
私だけは、お尻を向けて終ってしまう。1回転半してたのかも。
とうとう降ろされて、人生初の屈辱感を味わいました。

父がいない代わりに、厳しかったのは近くに住んでいる母方の祖父でした。
母の財布からお金を盗んだ時は、祖父に両手を縛られ、洋服ダンスの中に入れられて、
暗い中で 「 もうしません、もうしません!」と泣き叫んでいました。

70年も前のこと、やっとこれだけ絞りだせました(^_^)。


小学校時代  後(自分史)

2015年02月09日 20時58分44秒 | 自分史
写真屋の爺ちゃんの息子も復員して結婚、女の子が生まれ、私も時々子守でした。
乳母車に乗せて、下り道をダーッと押して走ったら、なぜか、まっさかさまにひっくり返った。
必死でかご風の乳母車を起こしたら、女の子は泣きもしないで地面に座っていました。

台風の翌日、増水して濁流になっている川に「行っては行けないよ。」と言われているのに
炊事用の竹ざるを持って行きました。
岸辺から、水中の草の下をすくって魚を獲るつもりが、すべりおちて、流されて、
どうやって上がったか。
びしょぬれのまま帰るとばれるから、堤防でずーっと、洋服が乾くのを待っていました。

友達の父親の職場に、友達は子供用で、私は写真屋の爺ちゃんの自転車に三角乗りで、しかも無断借用。
すぐ帰るつもりが、遠いのなんのって。帰ったのはうす暗くなった夕方。
行き先も言ってなかったので、大人達みんなに、こっぴどく叱られて・・・。
  * 自転車の三角乗り(大人用の自転車には、足が届かずこげないから、
    ぺダルの上のフレームで囲まれた三角の空間に右足を入れて、本体を少し右に倒して、
    立ってこぐ。長時間はきつい。)

家の斜め前にも旅館があり、そこの仲居さんや、近くの交番のお巡りさんもよく遊んでくれました。
ひまだったんだろうか?
家では、ちゃぶ台に立って、お巡りさんが交差点の中でやっていた交通整理をよく真似していました。

元気で、危険な自分だったのだ、と今さらながら思う小学校時代でした。

小学校時代  中(自分史)

2015年02月05日 22時44分09秒 | 自分史
お風呂は近くの銭湯に行ってました。当然毎日ではなかったでしょう。
1円足りなくて、行けないこともあったと、母が言ってました。

そんな私達を、叔父(母の弟)が物心両面で助けてくれました。
叔父にも4人の子供がいるのに、ほんとうに感謝しきれません。

また、家の真ん前の写真屋の爺ちゃん、婆ちゃんの家では家族同様にしてもらって、
写真屋で猫と遊び、ご飯を食べ、爺ちゃんとお風呂に入りました。
私は、給食の牛乳(脱脂粉乳)を飲まずに、そろりそろりとこぼれないように持って帰って
猫に飲ませました。
私の背が伸びなかったのは、このせいかも(^o^)。

写真屋の爺ちゃんはうずらを飼っていました。
運動会の朝は、ウズラの卵を飲め、焼いた鶏の頭を食べろ、これで早く走れるぞ、と毎年熱心でした。
おかげで?リレーに選ばれて、男の子と喧嘩して逃げれば、追いつかれなかった。    

私の家の隣の大きい旅館が火事になった時は泣きながら「○○屋のバカー!」と、震えるほど怖かったです。
幸い、我が家は無事でしたが、この旅館は、後に台風で倒壊しました。
台風の翌朝、がれきの下から遺体が見つかって、その人の手が、材木に乗っかっているのを見てしまいました。
これがずーっと頭に残って・・・。
その方は復員(兵役を解かれて帰省する)して、自宅に帰る途中だったとか。
せっかく、戦争で生き延びてきたのに、なんと不運な方と、大人が話していました。
                                                  つづく

小学校時代  前(自分史)

2015年01月31日 22時00分14秒 | 自分史
1947年、小学校に入学しました。
学校では、何回か、校庭に一列に並んで、順番がきたら手で顔を覆って頭を下げると
先生が、白い粉を頭全体に振りかけます。しらみの駆除剤です。

当時はまだ戦後3年ほどの時代なので、身なりはきれいではなく、皆なの髪の中には虱(しらみ)がいました。
家でも、目の粗いすき櫛で髪をとくと、ぽろぽろと虱が落ちて来る状態でした。

戦争で傷ついた傷痍軍人さんが、白い衣装で街角に立ち、アコーディオンを弾きながら寄金を求めていたのは、
この頃からだったのでは。

我が家は、母と兄との3人暮らしで、父は戦死したので家計は苦しく、
私の洋服は母の着物から作り変え、セーターは古いのをほどいて、やかんの口の蒸気で伸ばした毛糸で編み変え、
食事はかまぼこがあればごちそうの類、茶碗蒸しは、私にとっては一番のものでした。

生計の為に、広い家屋敷はいつか売られて、6畳一間の我が家が、その庭の一角に建ちました。
便所は、外にある古いもので、雨漏りで便槽はすぐいっぱいになります。
大きいのが出たら、下に落ちないうちにサッと立ち上がらないと、ポチャンと汚水がお尻にかかるので、
技術と敏捷さを要するものでした。

母は道路に面した土間で店を始め、お菓子、豆腐、アゲ、コロッケ等を売りながら
着物の仕立てを受けていました。針の糸通しは私の仕事で、朝は、何本も通しておいてから登校しました。
豆腐が品切れになると、私が豆腐屋さんに追加を頼みに走ります。
コロッケ屋さんは、自転車で卸しに来るので、揺れて型が崩れたのは私にサービス。嬉しかったなあ。

すぐ近くの橋の下には、ござやむしろで仕切りを作った、今でいうホームレスさんがいて、
我が家にも買い物に来ました。
時には付けで、時にはお産の為のタライを借りに、時にはそこの兄ちゃんとかけっこして遊んだり、
良い人ばかりだったと思います。
                                        つづく


成人の日

2015年01月13日 13時43分08秒 | 自分史
昨日は成人の日。

TV見ながら、私の時は・・・と思い起こせば
そうだ、これを機会に自分史を書いていこう。
73年間を書くには多すぎて、ためらっていたけど、なにか機会あるごとに
順番はばらばらでも、少しずつ書いていけば、いつの間にか終るわ、と期待して、
まずは、成人式から。


成人式は、友達と待ち合わせして会場へ、後に、一緒に昼食の予定でした。

待ち合わせ場所で一人、待っても待っても友達が現れない。
もう式が始まった頃にやっと来た友達二人は、きれいに和服で着飾って・・・。
私といえば、スーツを作り変えた地味なワンピース。

着付けに時間がかかったことはわかるけど、散々待たせられて腹立たしい思いと、
着ているものの差に、その後どうしたかは全く覚えていないほどのショックでした。

地味にしたのは自分の意志だったのに、両親揃った友達と、
片親の自分の経済的なことまで考えて、ひがみもあったはず。

成人の日なのに、成長していない私でした。