先日、『青春』が話題になったので、私の、はるか昔の青春はどうだったかなあと思い出しつつ、・・・。
あの当時、大学に進学するのはクラスの3割程度、私は学費を考えれば受験できなかった。
それよりも早く給料をもらいたい方が強かったかも。
卒業後、すぐに入った会社は社員の多い会社で、私は、お姉さんがいっぱいの課に配属された。
学校とは違い、年齢差が段々とあり、兄弟姉妹が兄一人だけの私にはうれしかった。
仕事も面白く、楽しかった。
他にいろんな部門があり、男性もいっぱいで、休日には合同でハイキング、キャンプ等、会社の
トラックの荷台に乗ってピーチクパーチク、歌やおしゃべりしながら行ったものだ。
時間があれば卓球、時には社交ダンスの練習と、仲間がいっぱいだった。
県内にひとつしかない天然スケート場には時々、4~5人で滑りに行った。
それも、バスを乗り継ぎ、安い国民宿舎に泊って、高原のスケート場で滑る。
これがまた楽しかった。話を聞いていた男子新入社員が
「僕も連れてって。」
「じゃあ、用心棒代わりに一緒にお出で。」と先輩気取りで一緒に行ったこともあった。
仲良し友達と帰宅途中に、おでん屋に寄ったり、納涼バスというほうずき提灯を下げたツアーバスをみて、
「乗ろう!」と、夜の青島海岸で遊んで帰ったり、
ほんとに自由だったなあ。
でも、いつからか、せめて短気大学でも行きたいと貯金していって、ちょっと離れた県の短大を受験した。
そのために勉強をしたつもりだったが、「サクラチル」の電報で終ってしまった。
つづく
スケートの写真がみつかりました。
この頃でカラーなので驚きました。
あの当時、大学に進学するのはクラスの3割程度、私は学費を考えれば受験できなかった。
それよりも早く給料をもらいたい方が強かったかも。
卒業後、すぐに入った会社は社員の多い会社で、私は、お姉さんがいっぱいの課に配属された。
学校とは違い、年齢差が段々とあり、兄弟姉妹が兄一人だけの私にはうれしかった。
仕事も面白く、楽しかった。
他にいろんな部門があり、男性もいっぱいで、休日には合同でハイキング、キャンプ等、会社の
トラックの荷台に乗ってピーチクパーチク、歌やおしゃべりしながら行ったものだ。
時間があれば卓球、時には社交ダンスの練習と、仲間がいっぱいだった。
県内にひとつしかない天然スケート場には時々、4~5人で滑りに行った。
それも、バスを乗り継ぎ、安い国民宿舎に泊って、高原のスケート場で滑る。
これがまた楽しかった。話を聞いていた男子新入社員が
「僕も連れてって。」
「じゃあ、用心棒代わりに一緒にお出で。」と先輩気取りで一緒に行ったこともあった。
仲良し友達と帰宅途中に、おでん屋に寄ったり、納涼バスというほうずき提灯を下げたツアーバスをみて、
「乗ろう!」と、夜の青島海岸で遊んで帰ったり、
ほんとに自由だったなあ。
でも、いつからか、せめて短気大学でも行きたいと貯金していって、ちょっと離れた県の短大を受験した。
そのために勉強をしたつもりだったが、「サクラチル」の電報で終ってしまった。
つづく
スケートの写真がみつかりました。
この頃でカラーなので驚きました。