よろずの記 and 爺へ               

人生、残り少なめの日々の出来事や思いの綴りです。
やはり、ツーカーと話せるのは爺でした。  

過剰包装

2007年03月15日 23時23分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

Siitake_134 左の写真は先日お葬式に参列した時に受付で頂いたものです。

手前の密封されたお茶の袋が
  1.装丁された紙に巻かれて
  2.ふたのある紙箱に入れられて
  3.さらにプラスチックの箱に入れられて
  4.それが持ち手の付いた黒い紙袋に入っています。
いつものことながら、これだけのものが葬儀毎に何百個と出て、お茶以外はゴミになることを考えると、資源ごみとしても、捨てて→集めて→再生して→作って→使って→捨てて、 の循環の手間がどんなに無駄なことかと、頂くたびに思います。
最近の過剰包装を減らそうという声に気付いて欲しいものです。
まだ他にも今すぐ思い浮かぶことは、新聞が晴天でもビニール包装されていることや、大型のパン屋さんで一個一個をビニール袋に入れるなどがあります。

信仰の心配

2007年03月02日 16時13分37秒 | 日記・エッセイ・コラム
友達から「会いたい」と日時を指定してきました。
いつもの3人で食事しながらおしゃべりだろうと楽しみにでかけたら、あるビルの一室に連れて行かれました。部屋の奥には黒塗りの祭壇があってちょっと異様。そこに4~5人の人が集まり、中心と思われる人が何かを唱え始めました。その後、私ももう一人の友も呼ばれて祭壇の前で掛け声に合わせて何度も何度も頭を下げて終りました。
何のことやらわからないまま腹だたしく、途中で出たいと思ったものの、彼女のことを考えると終るまで出られませんでした。
察するに、誰かを紹介しなければならなかったような・・・。
その夜に彼女から謝りの電話が来ました。「前もって話したら来てくれなかっただろうから。もう後は何もしないから。」と言うのです。そして「何も悩みのない人には判らないでしょう。」とおとなしい彼女にしては今までにない強い語気でした。
彼女はこれまでに姑と、実母と、夫の介護を次々とほとんど一人でこなしてきて、その間にいろんな問題も発生しました。
信仰することによって彼女の気持ちが穏やかになれば、それはいいこととして、それが邪宗でなければいいがと心配でもあります。
しばらくは時々会いながら様子をみてみようと、もう一人の友と話しています。