よろずの記 and 爺へ               

人生、残り少なめの日々の出来事や思いの綴りです。
やはり、ツーカーと話せるのは爺でした。  

爺の命日

2021年07月08日 13時13分29秒 | 自分史
3日は爺の命日でした。

独りで墓に行くと、二人の姪や一番下の義弟夫婦のメモがあり、
ビール缶が4本も並んでいた。さすがに呑兵衛の墓だわとクスッ。
夕方、爺の叔母と電話で話した。96歳ながら、脚は悪いけど元気、
元気。
「〇ちゃん(爺のこと)はね、貴女のことが好きで、好きでたまらん
かったのよ。宮崎弁で話すのが可愛いいと言って、他の男性と
話しているのを見ると、気にしてねえ。」
へええ、初めて知った。青春だったんだなあ。
「でもね、貴女は飲む人の居ない環境で育ったから、酒飲みの
扱い方を知らなかったからねえ・・・・・」
叔母ちゃん、ちゃーんと察してたんだなあ。ほんとにそれは
どうしてもうまくやれず、ずーっと辛くて、ずーっと嫌だった。
それがなければ、また違った50年の結婚生活だっただろう
なんて、もう考えても遅い。
独りの寂しい、寂しい爺の命日でした。


消えていく

2020年08月18日 23時13分03秒 | 自分史
昨日は、我が市の介護施設でコロナのクラスター感染あり、
利用者と職員の16人だそうです。大変なことです。

昨日の自転車乗りは、出るのがいつもより遅く、暗くなったので、
明るい街通りの方を走ったら、3階建ての米穀店のビルが取壊し
途中になっていた。
私は、このビルのすぐ横の小さい家に、新婚時代に半年くらい
住んでいたことがあった。
ある朝、寝ていたら、店から「電話ですよ。」と呼ばれた。
当時はまだ、どこでも電話がある時代ではなく、当然、私達も
付けていなかったから、慌てて店の電話まで走った。
ネルの着物の寝巻のままで、恥ずかしい姿だっただろうな。
出社しないからと、会社からの電話だったが、これも恥ずかしく、
電話にも、店にもぺこぺこ頭下げて慌てて出社した。勤務時間を
間違っていたのだ。
店の主は、もみあげから顎までのひげの、細身の優しい方だった
から、そばを通る時に気を付けていたけど、姿が見えなかった。
お元気かなと思っていたが、最近は店が閉まっていたものなあ。
小さい家はとっくに無くなっていたが、20代の思い出のこの
ビルも消えていくとは、と寂しい思いでした。


百人一首

2020年08月11日 10時48分20秒 | 自分史
早朝から強い陽が照り付けています。
昨日から日除けの無い廊下は、雨戸を隙間を空けて閉めて、グーです。

時間のある自粛の日々、俳句に役に立つかもと、百人一首をとり出した。
懐かしいなあ。高校生の頃の放課後、友達8人(男4女4)でよくやったものだ。
時には我が家、時にはA君の家と行って、A君のお母さんの餃子を食べたり、
それぞれに得意な取り札があって、それを横取りしようといつも盛り上がり、
卒業まで続いた。
その中でカップルが一組生まれていたが、親の反対で悲恋に終わり、意に
添わぬ先に嫁いで行ったと聞いた。
その後、彼女とは一度も会う機会がなく、彼は大きい会社の社長になっていたが数年前、訃報を聞いた。
私の青春の一コマの百人一首、今読むと悲しいかな、半分も覚えていない。
あのセーラー服の日から60年、ほんとに遠い日となりました。


梅の話

2018年08月04日 11時56分55秒 | 自分史

先日、義弟夫婦が梅干を持ってきてくれました。

きれいな色に染まった、小粒の梅干、蜂蜜も使って義弟が漬けたそうで、ほんとにおいしくできている。

 

あの時、私達はまだ婚約中だった。

彼の家に行って、野良着の格好をして、梅の苗木を植えに、両親と4人で、オート3輪で山に向かった。

それだけで、もう家の一員になったような幸せ気分だった。

梅の苗は30本位だったそうだが、半世紀も経って、今残っているのは3本だけ。

一昨年までは梅ジュースや、梅酒を作っていたが、もう一人では採りに行けない。

両親も彼もすでに居ない今年、義弟が実を採り、梅干しとしてくれたことに感無量、泣けてくる。

彼と植えた梅の木の実がこうしてきれいに漬かって・・・。

  

姑は、毎年梅干しにして、私はそれを苦労もせずもらうだけだったが、何年か前、その梅干しが出てきた。

25年以上も前のもので、皮と種だけで、塩が吹いているが、処分し難く、いまだに保存している。

        25年前             今年

 

 


プロポーズ

2018年03月20日 13時38分43秒 | 自分史

本日3月20日は、爺と私の51回目の結婚記念日です。

 

秋のある日、小高い丘の公園で、二人で並んで草はらに座っていた時、爺が言った

「春に式を挙げようか?」プロポーズだった。早くて、予想していなかった。

それからほんとに楽しい半年。

二人で、結納の鯛を市場に買いに行ったこと、俳句用の長い色紙を半分に切って

披露宴の出席者名を書き、テーブルに置くようにしたことなど、何をしてもうきうき。

実家から、丸めたカーペットを担いで新居のアパートに運ぶのさえ、嬉しくて

たまらなかったのだから、今思えばちゃんちゃら可笑しい。

 

きょうは一人だけの結婚記念日だが、爺の妹が来てくれることになっている。

二人で昔話をしよう。

 

 

 


結婚

2017年03月24日 20時42分40秒 | 自分史
冬は寒くて終活を怠けていたので、そろそろ始めようかとしたところです。

タンスを開けては、どうしたらいいか決めかねる着物の中に、ウェディングドレスもあり。
50年前、友達のお姉さんに縫ってもらったもので、シンプルだけど、時代が時代だから。

べールは兄嫁のを借り、ブーケは親友が作ってくれた。
結婚式場は、叔父が勤務先の施設を都合してくれた。

ささやかな結婚式ではあったけど、幸せいっぱいだったなあ。
でも、3泊4日の新婚旅行から帰ったらすぐ、現実が待っていた。

母に甘えて育ったので、勤めしながらの家事は辛かった。
昔気質の、飲ん兵衛の夫の扱いは難しかった。

辛いことの方がいっぱいあったけど、年をとった今になって良かったと思うのは、
母子家庭、兄1人だけの私が、夫の両親と兄弟姉妹5人との家族になれたこと。

一昨年の長男の不幸の際に、みんなが親身になって支えてくれたことは忘れられることではない。
この節目の年に、ウェディングドレスを見ながら思ったことでした。

ああ、このドレス、どうしようかなあ。 
  
    









その裏には

2017年02月01日 23時37分24秒 | 自分史
前記事には『栄光?』などと、大変厚かましいことを書いて恥入っております。

でも、それで許してもらえれば、自分だけでそうできたのではなく、裏には
いっぱいお世話になった方があってのことでした。

長男の産休明けからは、保育園に入るまでの2年間を私の母が一緒に住んで、勤務中に子供をみてくれた。

次男の時は、夫の遠い親戚のHさんが、これも2年間、ご夫婦でみて下さった。
不規則な勤務時間だったので、迎えが夜になる日は、起こすのは可哀そうだからと
翌朝まで預かって下さり、夕方迎えの時は、もうお風呂に入れてもらってさっぱりして、
どんなに助かったか知れない。

保育園から小学校にかけては、私が研修で2週間不在が数回あった。
姑にお願いした時は、寮から電話をかけると、日を追って姑の声に元気さが無くなっていた。
慣れないアパートの生活が無理だったらしく、申し訳なかった。

その後の研修は出来るだけ夏休み期間中にして、時には夫の実家でみてもらった。
義両親と同居していた義弟夫婦にも当然お世話になっていた。

小学校では、PTAのクラス役員の順番となり、会議とか出れそうになく困っていたら、K君のお母さんが
「私が出てあげるから、名前だけだしておいたらいいよ。」って。
1度は、研修中に運動会が重なり、同級生M君のお母さんが弁当を作って世話して下さった。


アパートでは、どうしても帰宅が遅くなる日、隣の老夫婦にお願いした。
長男が保育園から逃げ帰って来た時、3階のYさんが私が帰宅する迄、世話して下さっていた。

改めて書いてみれば、こんなにもお世話になっていて、私はちゃんとお礼を言っただろうか。
「おかげ様でした。ほんとうにありがとうございました。」

もう会えない人が6人も・・・残念です。



栄光の時?

2017年01月30日 00時03分44秒 | 自分史
先日、テレビで『あなたの栄光の時とは?』とインタビューしていました。

うーん『栄光の時』ねえ、私にはそんな時があったかしら、しばし考えた。
長男を出産した時、爺が「やったね!」と言ってくれて誇らしく思ったけど、あれは
爺の遺伝子からだわ。

他には、ソフトボールで優秀選手賞をもらったなあ。
10代から50代の男女混じった選手の中でトリプルプレーをした時。正直うれしかった。
でも小さい、小さい組織の中のレクの時の試合だから、栄光と言うようなものではない。

強いて言えば、35年の勤めを終えた日が、私にとっての栄光の時なのかもしれない。
結婚、出産後も家事と両立させ、公私ともに男女不平等に不満を持ちながらも勤め続けて、迎えたその時。

35年間は、今の人生の約半分。栄光は簡単に手に入るものではなかったです。


私の青春 (後)

2016年09月23日 22時42分16秒 | 自分史
この時代の、若者の大きな行事に『平和友好祭』というのがありました。

市内の働く若者が海岸に集合して遊び、夜も近くの小学校の教室で意見を交わす健全な集いだ。

私もそれに参加していて、水道で足の砂を洗い落としていたら、誰かが「こんにちわ~」
知らない人だったけど「こんにちわ~」

話していたら、ああ、この前の人・・・。私は人覚えが非常に悪い。

この前の人・・・とは、
何ヶ月か前に、ある職場の男性3人と、うちの職場の女性3人が会うことになっていたらしい。
つまり、今で言う合コンだ。ところが、一人急用で、突然、私に代わりに行けと言われた。
詳細は判らぬまま行ったら、6人でボウリングの後、お寿司屋さんで話をした。

彼は、その時の一人だった。再会から数日後に彼との初デイト。50年前のちょうど今頃だ。
爺のオートバイの後に乗って、いや、その頃は爺ではなく24才、背が高くてイケメンだった。
家族の話をよくしてくれて、家庭的な人だと感じた。

半年後、奇しくも、合コンに代理出席した私だけが結婚した。
ついに私の青春は終りを迎え、厳しい共稼ぎ生活に突入したのでした。                                    
                                     おわり

  平和友好祭 海岸に沢山の若者が集まって。
   

私の青春 (中)

2016年09月22日 11時00分12秒 | 自分史

「サクラチル」の電報は、兄のお嫁さんを迎える為、家中の片付けと大掃除の最中に届きました。

ぐっと涙をこらえて、猛烈に働いて、「お前、今日はよう動いたなあ~。」と兄が言ったほど片付けがはかどっていた。
それですっかり吹っ切れた私、単純だった(^O^)。

しかしその頃は美人ではない顔に、青春のシンボルと言われていたニキビがいっぱい、大根足のひどい容姿と、
もうとるところのない私だった(・・・・・だったではない、今もだけど)ので、あまり遊びに行きたくない
時期でもあった。
仕事は面白いから、真面目に、無遅刻、無欠席。病気もしない。

この頃、ドラマ「奥様は魔女」が好きで、帰りの遅い日は、バスを降りたら全速力で走って帰る。
バタバタと玄関を開けると、兄が「追いかけられたのか!」と慌てて出てきたことがあったなあ。

そういえば、お見合いを2回したわ。
1回目は叔父に勧められて、おまわりさんだった。でも、背が小さいから、と断られて、いいのよ、いいのよ。

2回目は職場の先輩のお勧めで学校の先生。ぱっとしなかったのでお断りしたが、もう1度会ってと言われて、
あれはどこだったか、小高いところだったけど、霧が出ていた。
「霧とガスと、どう違うのでしょうね?」と私。
「さあ、わからん。」と彼。
これで、やっぱり断ると決めた。判らんでいいのだけど、どうしてだろうね、と一緒に考えて欲しかった。

まだ、結婚を考えるには早かったようです。

つづく