季節の物売り 江戸情緒 ③ 夜泣きそば
チャルメラの音が暗い夜の町を流れてくる。
もうそろそろ子どもたちが床に入る時間だ。
なんとも物悲しい音色が、記憶のヒダに刻まれ、
今では全く聞かれなくなったチャルメラの音を懐かしく思う。
20年近く前、熱海温泉に泊まった夜、宴会のどんちゃん騒ぎが終り
それぞれの部屋に引き上げたころ、
あのなつかしいチャルメラの音が聞こえた。
私は飛び起き、海岸通りのただ一軒の屋台に飛び込んだ。
懐かしい音と昔風の鶏がらスープの中華そばを、
潮騒の音を聞きながら、フウフウ言いながら疲れた胃袋に流し込んだ。
小さな焼きのり一枚と、薄く切ったナルト、シナチク、輪切りにしたゆで卵。
シンプルな具とさっぱりしたスープが絶品だった。
夜泣きそば 夜鷹そば
(図1) (図2)
江戸初期には、煮売り屋という商売があったようです。
火を使って煮た食べ物を売る商売です。
商売には店構えによって格があり、「店売り」といって店を構えて商売をする店、
縁日など人の集まる場所に出かける「辻売り」で、
現在では香具師がとりしきる「屋台」という形態で残っています。
てんびん棒の両端に商品をのせ、街々を流して売り歩く、「振り売り」などがありました。
「振り売り」はやがて、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれるようになりました。
文献によると、「振り売り」という商売の形態は、室町時代ごろからあったようですが
本格的になったのは江戸時代になってからです。
江戸に幕府を築いた徳川氏は、政権安定を計るために、親藩、譜代、外様を問わず参勤交代
という制度のもと藩主とその妻を江戸に住まわせました。
藩主の務めを支えるために、たくさんの家臣たちも江戸住まいを余儀なくされ、
上屋敷、中屋敷、下屋敷に分散された広大な敷地の中に、
藩主をはじめ江戸詰めと言われる家臣たちも、
国もとから召集されますから江戸の人口は一気に増加します。
こうして、大江戸八百八町といわれる都市が、形成されていきます。
建築に携わるたくさんの職人たちも国もとから招かれます。
インフラ整備もしなければなりません。
しかし、何よりも必要なのは食糧であり、生活必需品でした。
幕府が開かれ、人為的に多くの非生産階級の武士たちが増えてきました。
たくさんの職人が流入し、商人たちも江戸の都に集まってきました。
年季奉公もなければ、商売の開店資金もほんのわずかで済む「振り売り」は、
日銭を稼ぐには格好の商売だったと思われます。
特に、食糧に関する「振り売り」が、その走りと思います。
(図3) (図4) (図5) (図6)
こうした訳で、江戸時代以前から続いていた「振り売り」文化が、
江戸時代に一気に花開いたのです。(図1、2)
(この絵にはどちらにも犬が描かれています。おそらく、そばの匂いに
腹をすかした犬たちが、おこぼれを求めてやって来たのではないでしょうか)
しかし、二度この「振り売り」、特に火を使う「ソバ屋」などが
禁止された時がありました。
1661(寛文元)年には、御触書によると「夜泣きそば」や「夜鷹そば」類の商いが禁止されました。
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど、火事は頻繁に起こったようです。
1657(明暦3)年の火事は江戸三代火事の一つで、「振袖火事」とも言われ、
この時の死者は3万から10万人の死者が出たようです。
この時の火事で江戸城の天守閣が焼け落ち、以後天守閣は再建されなかった。
この大火事の教訓を踏まえて、
火を使用し夜に営業する「夜泣きそば」等の営業が禁止されました。
火事の多い密集地帯の多く存在する江戸で禁止されたのも当然のことと思います。
1686(貞享3)年の御触書では、火を持ち歩く一切の「振り売り」が禁止されています。
1682(天和2)年の12月に起こった「八百屋お七の火事」は、
800から3000人の犠牲者が出たと言われています。
この火事の教訓としての御触書だったのでしょう。
明治になると、車輪付きの効率の良い「引き売り」がでてきました。
経済の発展と物流形態の発達は、徐々に江戸情緒の残る「振り売り」文化を
駆逐し、昭和に入ると一部の「商い」を除いて、ほとんど姿を消していきます。
一部残った「納豆売り」や「豆腐売り」も昭和20年代には姿を消していきます。
暗くて、寒く、人通りの絶えた夜道での、「夜泣きそば」や「おでん屋」は、
江戸庶民のささやかな楽しみの一つだったのでしょう。
「時そば」の落語も、振り売りの売り声も遠い遠い昔のできごとになり、
今はただ郷愁の中の思い出話になってしまったことがちょっと寂しい気がします。
(季節の香り№35) (2021.12.18記)
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