続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー二人の写真家』展。

2013-02-25 07:11:53 | 美術ノート
 横浜美術館で開催されている写真展。
 
 戦場カメラマンの仕事・・・ニュースになりうる写真の始まりは、人々を驚愕させたに違いない。撃たれて倒れこむ現場などに遭遇することは先ずあり得ない。そういう実写を目の当たりにする驚異。その必然を身体を張って戦場に赴きその一枚を撮ってくる勇気は震えるような感動を読者に与えたことは想像に難くない。(ちなみに撃たれて倒れこむ兵士の写真は、その後、足を滑らせただけに過ぎないらしいことが発覚している)

 それにしても死んだ兵士を激写するなんてことは普通では出来ないけれど、《これこそが戦争の動かぬ真実である》という証拠写真でもある。(ただ、写真はものを言わない。「死」というコメントがない限り、眠っているのか気絶しているのかの判定は難しい。夜の戦火が花火と映ることもありうる)報道写真は、解説と一体であれば、十万の死者を五十万の死者という誤報になり、写真の内実を膨らませる結果を作るという二重の虚偽を生じさせることもママあるかもしれない。虚偽は精神に火をつけ煽り立てる作用を有している)

 しかし、戦争の最中でも、滑稽(ユーモア)もあるし、談笑シーンの穏やかさもある。
 一つ間違えれば、自身の命も危ない危機的状況(現にタロー女史は亡くなっている)に身を晒しての仕事である。平和になれば失業するけれどむしろその日を夢想して、今ある現実に責務と糧を得る手段として立ち向かった二人。

 
「アナログの写真には目的の対象ばかりか思いがけない(意に反した)映り込みがある」そして「後世、作り上げられる(捏造)伝説もまた可能である」とは天野学芸員の話。

 確かに、写真(動かぬ現場の証拠)には意図しない偶然が潜んでいる。むしろそのことの方がトピックスになる得る場合もあるかもしれない。写真の寓意性の確率は少ないが、求められるものでもある。

「写真にはジャンルがあるばかりである」と聞いたけれど、必ずしもそうとばかりは言えない。見ることと見られることと、見ていることの観念的な眼差しとの差異と・・・。伝達の手段は奥が深く「この一枚」への期待は永遠かもしれない。

 非現実のような現実である戦場に、自らの眼差しをもって挑んだ二人の功績は歴史の動かぬ証言と化して、その写真群にある。
(ちなみに、以上は「アートテラーさんのイベント」に参加しての感想です)

『セロ弾きのゴーシュ』10。

2013-02-25 06:51:37 | 宮沢賢治
「だめだ。まるでなってゐない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやってゐるぼくらがあの金沓鍛冶だの砂糖屋の丁稚なんかの寄り集まりに負けてしまったらいったいわれわれの面目はどうなるんだ。

☆極まる真(真実)に造(ゆきつく)。
 庶(もろもろ)の訓(教え導くこと)を掩(かくしている)。
 総て等(平等)である。
 化(形、性質を変えて別のものになる)が隠れている。
 絡みつく千(たくさん)の悶(思い悩み)も、均(ひとしく)等(平等)にする譚(はなし)である。
 千(たくさん)の赦(罪や過ちをゆるす)も等(平等)也。
 死んだ千(たくさん)の鬼(死者の魂)の衆(人々)を普く免(許し)、睦(仲良くする)。

*金沓鍛冶は、Shoe man(shoemaker)→シューマンの暗示。
 砂糖屋の丁稚は、Beet vender/ベートーベンの暗示。
 つまり、「音楽を専門にやっているぼくらがあのシューマンやベートーベンに負けてどうするんだ」というジョーク。」

『城』1194。

2013-02-25 06:37:24 | カフカ覚書
要するに、こうしたすべてのことのなかにすでに十分クラムのことが尾を引いている、とわたしには考えられるのです。が、それだけではありません。あなたは、クラムとのことを忘れようとなさらなかったら、きっとあれほどがむしゃらに無理をしてまでお働きにならなかったし、商売をここまで繁盛させるようなこともなさらなかったでしょう。

 働く/gearbeitet→Alibi/現場不在。
 商売/Wirthaft→Wort/言葉。

☆要するにこうしたすべてのことに、クラム(氏族)のことが十分尾を引いているのです。が、それだけではありません。あなたはクラム(氏族)とのことがなかったら、現場不在にもならなかったし、言葉をここまで駆使なさることもなかったでしょう。