『博学な樹』
(博学な樹)というタイトル自体に違和感を感じる。樹に(博学な)という形容はないからであり、(のように見える)という想定は、すなわち架空の異世界、心象である。
まず第一に重力の否定、カーテンらしき物も平板も、あたかも何かに絡み寄りかかっているように見えるが、そうではない。そして、枝葉の生えた樹(ポール)もこれほどの量の枝葉を支えられる条件を有していない。
全てが条理を外している状態である。もちろんピンクの大地もなく室内(床)に生える樹というものもない。
眼(眼差し)が人体を離れて独自に活動することもなく、宙に浮いていたり床面に半分吸収、埋め込まれる異常事態もあり得ない。ドアを思わせる平板に長方形の空きはあるのも不自然である。
ピンクの面は円形を示しており上方が壁でなく空のように見えることで、この床面は球体である可能性を秘めている。
これら不条理極まる条件を踏まえて『博学な樹』と称している。この樹が博学であるはずがないという不信とマグリット(作者自身)の確信(断定)が交錯する。
博学とは知識(情報量)の抱負なことを指すが、この場面はそれを鵜吞み(肯定)にするには、受け入れようとするための観念の崩壊が必要である。
『博学な樹』を受容するためには、集積された常識(知識)を捨て去るというプロセスを踏まねばならない。
『博学な樹』は、現実における(博学)という通念から脱却し、自由にならなければ見ることが叶わない作品である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
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