「さあ、ここらの雪をちらしておくれ。」
雪狼どもは、たちまち後足で、そこらの雪をけたてました。風がそれをけむりのやうに飛ばしました。
かんじきをはき毛皮を着た人が、村の方から急いでやつてきました。
「もういゝよ。」雪童子は子供の赤い毛布のはじが、ちらつと雪から出たのをみて叫びました。
「お父さんが来たよ。もう眼をおさまし。」雪わらしはうしろの丘にかけあがつて一本の雪けむりをたてながら叫びました。子どもはちらつとうごいたやうでした。そして毛皮の人は一生けん命走つてきました。
子どもは子供(死境)から脱したのだろうか、雪を被さり、凍死を避けたということか。
「お父さんが来たよ」子どもは雪の遭難から一晩じゅう雪の中に居て助かった(らしい)という場面である。
(三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて、西の方へ帰つて行きました。)
この三人は『水仙月の四日』、船の形をした月に乗る来迎…極楽浄土から(臨終の人)を迎えに来た阿弥陀如来や菩薩(観音菩薩・勢至菩薩)を暗示している。しかし、賢治は雪童子とだけ書き、すべての雪童子を同列に描いている。そして雪童子に指令を与えているであろう雪狼は連れられている立場におき、雪童子を雪狼の主人にしている。主従を逆にし開放しているのだと思う。
毛皮を着た人は、亡(死)を秘(隠した)人ではないか。
「もういゝよ。」雪童子は子供の赤い毛布のはじが、ちらつと雪から出たのをみて叫びました。
赤い毛布…毛布はモウ・フと読んで、亡、訃(死の報せ)、すでに死んでいるのを見て(悲痛な)叫びをあげたのではないか。
(子どもはちらつとうごいたやうでした。)生きているのだという兆し…生死の確定は謎である。
『水仙月の四日』は極楽浄土へのお迎えがある有難い日なのだから《ひゆう、ひゆう、非有(存在を消す)》と、わざとぶつかりながらも、走り回った雪婆んご・雪童子・雪狼の幻想。切なくも激しい痛みを伴う『水仙月の四日』の空想譚である。
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