十字架のキリストに在って、旧き私は砕かれてある。
復活のキリストに在って、新しき私はみ霊に生きている。
聖霊のバプテスマこそ、死と霊性を、十字架と復活を
我らの現実体験となし給う。
「キリストの霊性 小池辰雄著作集第八巻(著作集刊行会)所収」
昭和54年春、私は何気なしに神田の古書店に入って、ある雑誌を手にしたら、こんな詩文が目に飛び込んできました。
それがキリストの無者小池辰雄先生との出会いでした。
最初はこの人がどういう人なのか全く分からなかったのですが、後で判明して驚きました!私の大学の教授だったのです!…何でも校歌を作詞したのだと言います。全く知りませんでした…。
手島先生とは戦前から無教会を通じて知り合いとなり、ある時ともに集会を持ったところ、集っていた一同に聖霊が降臨し、先生もそこで決定的な体験をされたそうです。
原始福音とか幕屋と言うフレーズは最初小池先生が使っていたそうですが、手島先生がその看板で全国的に広めてしまったので、区別するために自身の集会名をキリスト召団と呼ぶようになりました。
で、ともにその無教会陣営から異端視され、仲間外れにされてしまいました。
この所謂聖霊派とも言うべきキリスト教の潮流ですが、世間では集団的な熱狂的陶酔というイメージが付きまとうようですが、それが全てではありません。
静かに、祈り込むというような現れなどもあります。小池先生の祈りなどがそうです。
私はあの「ワー!ワー!」というのはあまりなじめませんでした。
大阪のある人なんかは、そういうのは「ええカッコし」だとか言ってましたが、「放っといてもらいたい!」と思ったものです。
私は又同じような宗派でも、所謂ペンテコステ派などにはあまり関心が向きませんでした。
どこか教理的というか「信じなきゃならないものが多すぎる」気がしたからです。
それにしても、キリスト教界の正統派を自認する人たちの、所謂「正しい信仰」に比べて、
先生のキリスト道の世界が何と、単純で自由であることでしょう。
先生は「私には信仰などありません!信仰が何物かになってはならない」と言ってるくらいです。
キリスト教から信仰を取ったら一体何が残るでしょうか?
私はつくづくこの福音というものが、その歴程の中で実に面妖なものになってしまったものだ、と痛感しています。
本当は福音というものは、律法も、戒律も、儀式も、修行も、そして信仰ですらも条件に関わらないものなのではないかと思っています。
単純にそれは、彼の世界からの”喜ばしき音づれ”ではないでしょうか?
無条件の愛です。そしてそれは全託ということと対応しているのでしょう。
こう言うと、「全託しなければならない」などと、取ってしまう…。
でも、それも恩寵のうちにあるのです。
先生はこのような消息を「十字架と聖霊」によるプロセスと捉えていました。
十字架だなどと言うと、私は贖罪信仰でも信じる事か、と思っていましたが、本当に恩寵の光を受け容れることにより、確かにその内実に預かることが出来ます。
限界ある自我は十字架で砕かれ、キリストと一体なる我が復活するという事です。
ただ、この表現は他宗教の人にはなじみにくい、という面は確かにあるのですが…
この消息はあらゆる精神の道に通ずる道標かと思います。
今日では信仰の有る無しに関わらず、至る所でそれぞれの有り様で、無条件の愛に預かるという人が増えてきています。
私はこれこそ、イエスが述べ伝えた「神の国が近づいた」という善き音づれの証だと思っています。
それは、あの小池先生のキリスト道を凝縮したような詩文を読んで、魂が揺さぶられた時、私に予感されていたのです…。
復活のキリストに在って、新しき私はみ霊に生きている。
聖霊のバプテスマこそ、死と霊性を、十字架と復活を
我らの現実体験となし給う。
「キリストの霊性 小池辰雄著作集第八巻(著作集刊行会)所収」
昭和54年春、私は何気なしに神田の古書店に入って、ある雑誌を手にしたら、こんな詩文が目に飛び込んできました。
それがキリストの無者小池辰雄先生との出会いでした。
最初はこの人がどういう人なのか全く分からなかったのですが、後で判明して驚きました!私の大学の教授だったのです!…何でも校歌を作詞したのだと言います。全く知りませんでした…。
手島先生とは戦前から無教会を通じて知り合いとなり、ある時ともに集会を持ったところ、集っていた一同に聖霊が降臨し、先生もそこで決定的な体験をされたそうです。
原始福音とか幕屋と言うフレーズは最初小池先生が使っていたそうですが、手島先生がその看板で全国的に広めてしまったので、区別するために自身の集会名をキリスト召団と呼ぶようになりました。
で、ともにその無教会陣営から異端視され、仲間外れにされてしまいました。
この所謂聖霊派とも言うべきキリスト教の潮流ですが、世間では集団的な熱狂的陶酔というイメージが付きまとうようですが、それが全てではありません。
静かに、祈り込むというような現れなどもあります。小池先生の祈りなどがそうです。
私はあの「ワー!ワー!」というのはあまりなじめませんでした。
大阪のある人なんかは、そういうのは「ええカッコし」だとか言ってましたが、「放っといてもらいたい!」と思ったものです。
私は又同じような宗派でも、所謂ペンテコステ派などにはあまり関心が向きませんでした。
どこか教理的というか「信じなきゃならないものが多すぎる」気がしたからです。
それにしても、キリスト教界の正統派を自認する人たちの、所謂「正しい信仰」に比べて、
先生のキリスト道の世界が何と、単純で自由であることでしょう。
先生は「私には信仰などありません!信仰が何物かになってはならない」と言ってるくらいです。
キリスト教から信仰を取ったら一体何が残るでしょうか?
私はつくづくこの福音というものが、その歴程の中で実に面妖なものになってしまったものだ、と痛感しています。
本当は福音というものは、律法も、戒律も、儀式も、修行も、そして信仰ですらも条件に関わらないものなのではないかと思っています。
単純にそれは、彼の世界からの”喜ばしき音づれ”ではないでしょうか?
無条件の愛です。そしてそれは全託ということと対応しているのでしょう。
こう言うと、「全託しなければならない」などと、取ってしまう…。
でも、それも恩寵のうちにあるのです。
先生はこのような消息を「十字架と聖霊」によるプロセスと捉えていました。
十字架だなどと言うと、私は贖罪信仰でも信じる事か、と思っていましたが、本当に恩寵の光を受け容れることにより、確かにその内実に預かることが出来ます。
限界ある自我は十字架で砕かれ、キリストと一体なる我が復活するという事です。
ただ、この表現は他宗教の人にはなじみにくい、という面は確かにあるのですが…
この消息はあらゆる精神の道に通ずる道標かと思います。
今日では信仰の有る無しに関わらず、至る所でそれぞれの有り様で、無条件の愛に預かるという人が増えてきています。
私はこれこそ、イエスが述べ伝えた「神の国が近づいた」という善き音づれの証だと思っています。
それは、あの小池先生のキリスト道を凝縮したような詩文を読んで、魂が揺さぶられた時、私に予感されていたのです…。