「ベルジャーエフを訳したあとでは、こちらもだいぶ熱に浮かされている。解説を書くにはあまりいい状態ではない。」
これはベルジャーエフの訳者の一人、氷上英廣さんのコメントです。
この他にもこの”現代の予言者”と言われた、ロシア人哲学者についてのパッションを濃厚に感じさせる文章をしばしば目にしたことがあります。
私もまた何度か書いたように、彼によって内部に火が点ぜられた者の一人です。
彼を知るきっかけは、小池辰雄先生が「神と人間の実存的弁証法」という作品を訳していたからです。
それまで哲学書などわずかに、プラトンをかじったことがあるくらいで、殆ど関心がありませんでした。
「概念だとか、論理などで真理が分かってたまるか!」などと、高を括っていたのですが、昭和54年秋に実際読んでみると「おお、これは読める!」…理解したかどうかはともかく、グイグイと引きこまれてしまった記憶が有ります。
これに味を占めて、他の哲学書にも手を出してみたものの「ダメだ…まるで迷路にはまり込んだみたい」に感じたものです。
これは、どうもアカデミックというか、学的哲学からはみ出た、異形の哲学らしいことを知ったのは、もう少しあとのことでした。
そして二冊目に読んだ「精神と現実」によってあのリアリティと至福に満ちた、”人生の裏側”へと導かれてしまったのです。
読み返してみても、どこをどう読んでそうなったかは分からないのですが、とにかく心の暗部に光が差し込んだようで、震えが止まらなくなってしまいました。
といっても、本格的に裏側の世界に踏み込んでしまうのは、数年後のことでこれにより突破口が開かれ、何よりその瞬間が訪れる予感がもたらされたのです…。
ベルジャーエフは自伝的作品「わが生涯」の中で、生まれた当初から「自分を、己にとって異質的な世界にやって来た外来者と感じた」と述べていますが、実に共感出来る言葉です。
ただこの言葉が謎めいています「私は別なる世界に出生の起源が有る」
そしてさらに、「自分がより高い世界からこの世に堕ちてきた」とも…この言葉には彼のキエフの没落貴族という出自が反映しているようにも、人間そのものの宿命的な運命が照応されている様でもあります。
「人間は神の像を宿しており、小宇宙である。」
これが彼のあらゆる思想の基調をなしている人間観です。
ここから本ブログのテーマとも重なる「人間は、人生は思われているようなものでは無い、より高い次元に起源が有る」というところに導かれる訳です。
ここにはキリスト教の影響が見られるのは、言うまでもありません。
私は時に彼のキリスト中心の観方と言うのが、鼻に付かなくも無いのですが、ロシア革命前に書かれた「創造の意味」の中で、来たるべきキリスト教についてこのように述べています。
「聖神は(聖書といった)固有の書物を有せず、外部からの訓戒を知らない。」「人間の内なる神的なものが…上からでは無く、下から開示される」(外的権威に依らず、内から…と読み取れます)
彼によれば、既成のキリスト教はもう使命を終え、神人の秘儀は終末的キリスト教において開示されるとしているのです。
このキリスト教観は西欧のそれとも、正教会に由来するものでも無く、彼独自のものだったようです。
当然のことながら、既存のどのキリスト者とは殆ど相容れる事はありませんでした。
訳者だった小池先生でも、ベルジャーエフについて言及しているものに接したという記憶は殆どありません。
何しろ聖書を有しないキリスト教…それはもはやキリスト教では無い!
ここに見て取れるのは別世界よりの福音と言うべきでしょうか?
地上では理解されるべくも無い、一定の住居を持たぬ巡礼者の福音なのでしょうか?
私にはこれが逆説的な、あらゆる相対を絶した普遍世界よりの喜ばしきおとずれに映っているのです…。
これはベルジャーエフの訳者の一人、氷上英廣さんのコメントです。
この他にもこの”現代の予言者”と言われた、ロシア人哲学者についてのパッションを濃厚に感じさせる文章をしばしば目にしたことがあります。
私もまた何度か書いたように、彼によって内部に火が点ぜられた者の一人です。
彼を知るきっかけは、小池辰雄先生が「神と人間の実存的弁証法」という作品を訳していたからです。
それまで哲学書などわずかに、プラトンをかじったことがあるくらいで、殆ど関心がありませんでした。
「概念だとか、論理などで真理が分かってたまるか!」などと、高を括っていたのですが、昭和54年秋に実際読んでみると「おお、これは読める!」…理解したかどうかはともかく、グイグイと引きこまれてしまった記憶が有ります。
これに味を占めて、他の哲学書にも手を出してみたものの「ダメだ…まるで迷路にはまり込んだみたい」に感じたものです。
これは、どうもアカデミックというか、学的哲学からはみ出た、異形の哲学らしいことを知ったのは、もう少しあとのことでした。
そして二冊目に読んだ「精神と現実」によってあのリアリティと至福に満ちた、”人生の裏側”へと導かれてしまったのです。
読み返してみても、どこをどう読んでそうなったかは分からないのですが、とにかく心の暗部に光が差し込んだようで、震えが止まらなくなってしまいました。
といっても、本格的に裏側の世界に踏み込んでしまうのは、数年後のことでこれにより突破口が開かれ、何よりその瞬間が訪れる予感がもたらされたのです…。
ベルジャーエフは自伝的作品「わが生涯」の中で、生まれた当初から「自分を、己にとって異質的な世界にやって来た外来者と感じた」と述べていますが、実に共感出来る言葉です。
ただこの言葉が謎めいています「私は別なる世界に出生の起源が有る」
そしてさらに、「自分がより高い世界からこの世に堕ちてきた」とも…この言葉には彼のキエフの没落貴族という出自が反映しているようにも、人間そのものの宿命的な運命が照応されている様でもあります。
「人間は神の像を宿しており、小宇宙である。」
これが彼のあらゆる思想の基調をなしている人間観です。
ここから本ブログのテーマとも重なる「人間は、人生は思われているようなものでは無い、より高い次元に起源が有る」というところに導かれる訳です。
ここにはキリスト教の影響が見られるのは、言うまでもありません。
私は時に彼のキリスト中心の観方と言うのが、鼻に付かなくも無いのですが、ロシア革命前に書かれた「創造の意味」の中で、来たるべきキリスト教についてこのように述べています。
「聖神は(聖書といった)固有の書物を有せず、外部からの訓戒を知らない。」「人間の内なる神的なものが…上からでは無く、下から開示される」(外的権威に依らず、内から…と読み取れます)
彼によれば、既成のキリスト教はもう使命を終え、神人の秘儀は終末的キリスト教において開示されるとしているのです。
このキリスト教観は西欧のそれとも、正教会に由来するものでも無く、彼独自のものだったようです。
当然のことながら、既存のどのキリスト者とは殆ど相容れる事はありませんでした。
訳者だった小池先生でも、ベルジャーエフについて言及しているものに接したという記憶は殆どありません。
何しろ聖書を有しないキリスト教…それはもはやキリスト教では無い!
ここに見て取れるのは別世界よりの福音と言うべきでしょうか?
地上では理解されるべくも無い、一定の住居を持たぬ巡礼者の福音なのでしょうか?
私にはこれが逆説的な、あらゆる相対を絶した普遍世界よりの喜ばしきおとずれに映っているのです…。