人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

葡萄の樹

2015-02-22 19:10:59 | スピリチュアル
昨日からの記事はハナっから、理解してもらおうなどと思っていません…(私自身ホントに理解しているのかどうか?)ただ自己満足かもわかりませんが書いてみたくなっただけです。読んでみたくなった、スルーしたいはもとより皆様の自由です…

自由意志…。いとも簡単に言ってしまいましたが、それは通常言われる意味とは違います。
意念を超えたところから発してるのは間違いないのですが…上手く表現できるかどうか…
そもそも私に意識の変容が起きた時、まず心身の自由が効かなくなってしまうという事態に見舞われます。
それは日常において活性化されていたもののことなのですが、同時にそれはその奥に存していた、押し込められていた意識が自由にされるという事でもあるのです。
そこに意識の性質により相反するようなことが起きていたのです!
これは実に重要なポイントかと思われますが…(分からないか?)
そこで私の内なる意識は普遍調和の領域と、極私的至聖所の領域があるいは重なり、あるいは往ったり来たりしていたのですが、こういう観方も出来るかも知れません。
それはもとより私が至聖所と呼んでいる領域しかない!
個を超えた普遍的な神的領域は、個なる自由意志の帰結であった!
でも一方ではこのような観方も出来ます。
もとより普遍的神的領域しかない!
自由意志に満てる至聖所は、そのように現れているだけで、本当は一なるものに統合されている…
こう見ると、個我は幻想であり、本来自由意志というものも無いとも言えるのかもわかりません。
ただそれのみからの観方は、果たして我々の現実世界にそのまま適応出来るものなのかどうか、という事です…。
でも…ずっと私の意識に映っていたのは、そのどれでもありません。
どこまでも広がり、底辺も上限も無い、葡萄の樹の如き、巨大なるフラクタルなものでした。
それは一なるものであり、多様なものである。
そしてまた、その葡萄の一粒のような個体も又一にして多様なもので成り立っていた。
あたかも各個体は全体の相似のようです。
要するにこの有り様の無限なる広がりなのです。
華厳経に言う蓮華蔵世界とはこのことなのでしょうか。
出口王仁三郎師の天の高天原、小池先生の神の幕屋、ベルジャーエフのソボールノスチもこの世界を描写していたのでしょうか?
キリスト・イエスは「我は葡萄の樹、汝らは枝なり」と言いましたが、正に生ける大神人といった感じです。
この矛盾多き現世に生を享けた人間なら誰しも、そのような世界はここ地上に実現されるのであろうか、と待望の念に駆られる事でしょう。
ここでもまた、意識の有り様で観方が変わります。
まず、その世界は既に実現されている。永遠の今において…
して、この見える世界では…実現されるどころか滅亡に瀕しているではないか!
これはしかし、この肉身を背負って生まれてきたものの宿命的観方でしょう。
滅亡の道をたどるか、理想天国を迎えられるか…全ては可能性だからです!
私にハッキリ分かっていることは、一粒の葡萄の実は枝や幹から切り離されてしまえば、地に落ちて朽ち果ててしまいます。
つながっていれば、大丈夫だということです。
葡萄の実の各々はもう、その連なりにつながる力は残っていないのかも分かりません。
だが、聞くべし!大地を破り、新たな葡萄の樹が立ち上がる音を…


コメント
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