人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍の光

2017-08-10 18:41:28 | 意識、照明
私はこのブログで、より多くの方に読んでいただこうとか、人気ブログを目指そうなどという魂胆など全く持ち合わせておりません
ずっと読まれている方ならお分かりのように、ここで書かれているものは、一般向きというものとは無縁なのです。
ごくマイナーな、個人的と思えるようなことばかりに終始している次第なのです。
でも、その事とは裏腹のように感じさせることですが、こういう事が私に常にもたげていることは確かなことです。
"普遍的なものを明らかに、表していきたい"

私はしばしば"神"という言葉を安易に用いすぎているのかもしれません。
宗教、スピなどでは、OOの神という形で現れ、表される場合も多々ありますが、それはあくまで仮現であって、自分に直接そのまま開示されることとは、区別されるものであることは言うまでもありません。
神について言い表す、経典、教説、教団...すべて言い表せないものの媒体と見るべきなのです。言い表せないものとは、分からないものとしか言いようがありません。
分からないからこそ、つい何だか分からないもので、使い勝手な言葉を使ってしまうのでしょう。(笑)
要するに"神"という言葉は暗号以上のものではないのです。
私はこれまで何人かの教師たちに触れ共感を覚えてきました。
しかし、そこから派生する主として団体にまつわるものは、私に反感、不協和音が生じる要因ともなりました。
私は一体何に共感して、何に反感を抱いたのでしょうか?
何度も性懲りもなく、このパターンを繰り返してきましたが、自覚されたのはごく最近のことです。(笑)
私の内面は"普遍性"というものを巡って揺れ動いていたのです。(神について仮に言い表せるものの一つはこの"普遍なるもの"とのつながりでしょう)
普遍ということは、誤解されやすいことですが、一般的なこと、ポピュラリティといったものとはまるっきり違うもので、世の中に知れ渡ろうと、しまいと敢然と息づいているものです。
それが息づいているということは、世間的なこととは別に、人々に内的な生命が息づいていることを意味しています。
しかし、どんなにそれが高遠な真理を伝えるものであっても、偏狭な宗我的な思念によって支配されるや、普遍への道は閉ざされるに至ります。
私はこうした傾向には、ほとんど生理的と言っていいほど、相容れないものを感じました。
普遍に開かれなくなるということは、通気性を失い、生命の枯渇を招くことにも繋がります。
これはこの世の如何なる教え、教師、団体...相対として、形あるものとして現れた媒体には付きまとっている問題と言えるでしょう。
それらを生きたものにするには、普遍の光に照らされなければなりません。
と言っても、こちら側にその照らしている何かがある訳ではなく、意識が普遍なるものに開かれることで、自ずからあちらから差し込んでくるのです。
諸々の閉ざされた思念から解き放つのは、普遍の光に由るのです。

私は、これまで縁のあった、いくつかのその媒体となる教師にも団体にも、私は全くその恩義に反したことばかりしてきたのかも分かりません。
そしてそれらの団体のあるものは、元々が組織としては弱体だったこともありますが、すでに役目を終え、人知れず世から埋もれたまま、消え去りつつあるようにも思えます。
だが、その指し示そうとしたもの、明らかにしようとしたもの、実らそうとしたもの...そこに新たに普遍の光が当てられ、その言葉の奥にあるものが明かされることを願い、そして今もなおそれは生き続けており、開顕しようとしていることを伝えずにおれません...。




コメント (2)
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