人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍精神と最愛のもの

2020-03-14 10:24:38 | 
人間は、一人一人顔も性格も違うし、考えも感じ方も違うものですね。
人間てのは"みな"そうなんです。この意味でそれは普遍的なことと言っていいのではないでしょうか?
普遍的なこととは、"みな一緒くた"ということではないのです。
従って、画一的にみな同じ色に塗りつぶししてしまうようなことは、"普遍精神"にもとること甚だしいことなのではないでしょうか?
そういうのは全体的と言うべきもので、ノンデュリアリティの人たちが一様に言う、"全体しかない"という言葉にはどうしても私は同調出来ないのです。
"普遍精神には、自由がある、障るものがない、迷いがない...付和雷同的迎合、追従もなければ、洗脳などというものとはおよそ縁がない...その人にしかない個性があり、しかも異なった他の個性からの共感を呼び起こさずにおれない..."
そこには必ずしも一致する点がなくとも、何故か引き合う共感、共振というものがあるのです。
この見える現実にはどこにも見い出せないようなものだけど、普遍精神のことは誰もが知っているはずのものでしょう。
この"違って当たり前のみんな"が普遍精神に目覚めたら、直ちに地上天国が実現してしまうことでしょう。(これは多分に、"あらゆる人が名称はともかく主神の意志どおりになったら地上天国が実現するのである..."、という出口王仁三郎師の言葉にインスパイアを受けています)
一人、そういうことになることが愛と平安に与ることなのですから...それは全一的なことなのです。
しかして、それに目覚める方法は?...
それは..."あなたの好きにしろi"...方法だなんて、他人行儀なこた言いっこなしi
それはきっと、あなたが最愛、最善と感じていることを追求することで開かれる...かもしれない。
最愛、最善、惹かれてやまないもの(中途半端なのはダメi)...それは絶対にあなたにしか分からないものでしょう。
理屈では分からないもの、要するに思いを超えているものでしょう。
私なら、"それはですね...神ですよ、神的なものなんですよi"、って言うかもしれません。けど、それは上記の理由で一寸言えんことがあります。
普遍精神ならざる、似て非なる、支配的、追従的、排他独善的精神に汚染された宗教のために、神様アレルギーの人だって居るでしょうに...
宗教的な人でしたら、どんな名称で呼ばれようと、他からでなしにあなた自身が愛してやまない神的なものであるのは言うまでもありません。
とにかく、形は祈りにせよ、瞑想にせよ、各人に順じたやり方で、一人一人が最愛のものとつながって、普遍精神に目覚めて頂きたい、これが私もそうありたい、好き勝手な念願なのです。
コメント
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