人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

消えてゆく姿とは?

2020-03-12 03:12:36 | 人生の教師
私は求道の初期の頃、五井先生と縁があったのですが、必ずしも先生が残した教えや行法に則った道を歩んできた訳ではありません。
だけど、何故か私は先生が"表向き"あまり言ってなさそうで、反面どうも言いたそうに感じることを書いている、あるいは書かされているようなのです。
例えば私は「消えてゆく姿」という教えなどは、理解したことも無ければ、理解しようという気にもならなかったものです。
"業かなんかが消えてゆくらしい...しかし、そういう姿があるのか?...それを見てればいいの?..いや見たり、追っかけてたら消えないの?"、とか考え出したら訳が分からなくなりそうでした。
他では「消えてゆく姿の教えは難しい、それから離れてみてラクになった、ああいう教えは失敗だったと思う...」、と自身のブログに書いている古い白光の会員だった人も居るのです。
又、長年その「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の行法をしていたある信者が、どうでもいいような陰謀論やオカルト的教説にハマり、トラワレ続けているという、"消えてゆかない姿"を見るにつけ、それが如何に観念ごと、形式ごとに堕しているかを思い知らされることで、やはり難しいものだと感じたりするのです。
改めて感じることは、それは取っ掛かりとしては、頭で理解したり、行法という形もあるだろうけれど、そういうもの自体、本来消えてゆくものではないか、ということです。
つまり、それはこちらがどう分かるとか、どう行じるかではなくて、"神に思いを向けていれば、自ずと思いは消えてゆく"、"神にあって"そうなる、ということではないでしょうか?
こりゃあ、分かるも分からぬもない、そうなるんだからしょうがないi
これは、現臨なるものが臨めば、自ずと分かることなのであり、自分で分かろうと、やろうとする向きには絶対に分かりません。
丹念にその著書を読んでいれば分かりますが、五井先生は随所でそういうことも言っているのです。
先生は「消えてゆく姿ということをハッキリと言明したのは私が初めてなんですよi」と言ってましたが、そうかもしれません。
しかし、その言葉に置き換える教え、形として行じられるものとしては、あくまで方便だったと言ってもいいでしょう。
それにトラワレたら消えてゆかない姿になりますよi
しかし、逆に考えてみると、その指し示しているものは、実に大きく、深いものがある、そういうものがそこから開かれてくる、ということをヒシヒシと感じずにおれませんi
特に関わり方次第によっては、罪意識から自分を責め続けたり、思いががんじがらめになって苦しんで来た人間には、大変な福音ともなるものだったでしょう。
私は表層では、分かった気がしなかったですが、どっかでそういう下地が出来ていて、知らずに道が開かれたようにも思うのです。
五井先生が主として居り場としていた大衆宗教の道には、宗教的業とも言うべき、幾多もの取違い、迷蒙、トラワレなどが付きまとうものです。それはある型を示す上では宿命だったと思います。
しかし、型というものには、それを超えたものも示されてあるものでしょう。
今は、その隠されていた奥義が開示される時節を迎えているように感じております。
コメント
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