「愛こそは神界の構成源であり、彼岸にも通ずる霊質である。私たちを完成せしめ、霊界にも私たちを顕してくれる原形質は、この聖霊の愛である」
(手島郁郎「聖霊の愛」/手島郁郎文庫刊)
何度も言うように神のことは、主我的な思い、知的概念によっては分かりません。
真理というものが抽象的に理解されるだけでは生きたものにはなりません。
愛というものが抽象論で語られるほど、それから遠退いてしまうでしょう。
"霊味"というものを欠いたスピリチュアルなど、ただの言葉遊びに過ぎません。
人の生において真っ先に知らねばならない、それ無しでは生きることすら出来ないものは、すべての思いを超えたものなのです。
それがあまりにも自己に近すぎるためか、物心ついて主我的な思いに捉えられた我々は、それに間近に、真中に与るには、彼岸に求めるように、その手はかからず、ただ思い描くことしか出来ないのです。
しかし、その彼岸、超越界から我々に直に、時に閃光の如く、時に乾いた草に雨露が染み透るようにも手をかけて下さるものがあるi...それは聖霊。ピニューマ、プラーナ、ダンマ...呼び名はともかく、それは思いを超えたハタラキ。(否、それはどんな言葉によっても形容出来ないものでしょう)
彼岸を此岸に、神と人とを、人と人とを結びつけるものこそは聖霊です。
手島先生は「聖霊とは愛である」と高調してやみません。
然り。愛とは、別々だったものを一つに結びつけてやまないものだから...
先生の処女作にして、その生涯に渡り唱道されていたことが凝縮されている、この書名「聖霊の愛」とは、何と思いを超えた世界の消息を伝える文字だろうかi
聖霊については内外に、カリスマ運動を中心にした教会関係からいくつか書物が出されていますが、あまりに所謂欧米由来のキリスト教信仰、聖書信仰、神学といったものと結び付いていて、私はあまり惹かれなかったのですが、先生の著書はずっと愛読してきました。
その理由は、先生が説かれているものは、諸々の色が付着していない、本当の意味での"純福音"だからでしょう。
そして、それは言葉の深い意味での、"スピリチュアリティ"そのものを語る、数少ない"霊学"ー霊の学びを伝えるものでもありましょう。
いくらそう思おうとしても、行おうとしてもそうならない、そうさせるものにあってそうなるのです。それが聖霊の愛i
(手島郁郎「聖霊の愛」/手島郁郎文庫刊)
何度も言うように神のことは、主我的な思い、知的概念によっては分かりません。
真理というものが抽象的に理解されるだけでは生きたものにはなりません。
愛というものが抽象論で語られるほど、それから遠退いてしまうでしょう。
"霊味"というものを欠いたスピリチュアルなど、ただの言葉遊びに過ぎません。
人の生において真っ先に知らねばならない、それ無しでは生きることすら出来ないものは、すべての思いを超えたものなのです。
それがあまりにも自己に近すぎるためか、物心ついて主我的な思いに捉えられた我々は、それに間近に、真中に与るには、彼岸に求めるように、その手はかからず、ただ思い描くことしか出来ないのです。
しかし、その彼岸、超越界から我々に直に、時に閃光の如く、時に乾いた草に雨露が染み透るようにも手をかけて下さるものがあるi...それは聖霊。ピニューマ、プラーナ、ダンマ...呼び名はともかく、それは思いを超えたハタラキ。(否、それはどんな言葉によっても形容出来ないものでしょう)
彼岸を此岸に、神と人とを、人と人とを結びつけるものこそは聖霊です。
手島先生は「聖霊とは愛である」と高調してやみません。
然り。愛とは、別々だったものを一つに結びつけてやまないものだから...
先生の処女作にして、その生涯に渡り唱道されていたことが凝縮されている、この書名「聖霊の愛」とは、何と思いを超えた世界の消息を伝える文字だろうかi
聖霊については内外に、カリスマ運動を中心にした教会関係からいくつか書物が出されていますが、あまりに所謂欧米由来のキリスト教信仰、聖書信仰、神学といったものと結び付いていて、私はあまり惹かれなかったのですが、先生の著書はずっと愛読してきました。
その理由は、先生が説かれているものは、諸々の色が付着していない、本当の意味での"純福音"だからでしょう。
そして、それは言葉の深い意味での、"スピリチュアリティ"そのものを語る、数少ない"霊学"ー霊の学びを伝えるものでもありましょう。
いくらそう思おうとしても、行おうとしてもそうならない、そうさせるものにあってそうなるのです。それが聖霊の愛i